やりたい政策とやれる政策のちがいと、やれる政策とやれない政策の線引き―やりたいことがやれるのだとは限らずやれないこともまたある

 れいわ新選組山本太郎氏は、東京都の都知事選に立候補している。山本氏は反緊縮の政策を行なうことを目ざしている。都が債権を発行して、十五兆円や二〇兆円といったお金をつくり、それを都民に配るのだという。

 東京都が十五兆円くらいのお金をつくることを、総務省から教えを受けたと山本氏は言っているようだが、総務省のほうはこれを否定しているようである。総務省は山本氏にそうした説明をしてはいないとしていて、食いちがいがおきている。

 総務省と山本氏のたがいの話が食いちがっているのがある中で、山本氏がもしも都知事になったとしたら、十五兆円くらいのお金をつくることはじっさいにできることなのだろうか。それで都民にお金を配ることができるのだろうか。

 東京都が十五兆円くらいのお金をつくって、それを都民に配るというのは、願望思考(wishful thinking)が入っているように見うけられる。願望(wish)またはそれよりも強い意志(will)があったとしても、それがまちがいなく現実化するとは言い切れそうにない。願望は願望であり、現実は現実だというのがある。

 十五兆円くらいのお金をつくりたいとか、それを都民に配りたいというのは、願望に当たるものではあっても、現実化するのは難しいのではないだろうか。願望と現実を混同しないようにするのだとすると、したいことがあるのだとしても、それができることだとはかぎらないのがあるから、したいことであってもできないこともまたある。

 予備校講師の林修氏は、やりたいこととやれることとやるべきことがあるとしている。これらをそれぞれに区別して見て行くことがたまにはあったほうが有益にはたらく。

 どのようなことであったとしても、やりたいことがあって、それがまちがいなくできるのだとは言い切れないから、どのような制約があるのかを見て行かないとならない。色々な制約があることをくみ入れた上で、その中でできることをさぐるようにして行く。

 まったく無制約に何でもやってよいというわけには行かないから、色々な制約があることをくみ入れざるをえない。その中で東京都が十五兆円のお金をつくれず、都民にお金を配れないのであれば、その中で色々とできることを探って行くしかない。そういうふうな形の中で最適化して行く道もまたあるはずだ。というよりも、そういう制約ありきの道を歩んで行くよりももっとてっとり早い即効薬となるような道があるのだとはちょっと見なしづらい。

 山本氏がやりたいような反緊縮の政策がじっさいにできるのであればそれに越したことはないだろうし、可能性としてはゼロではないのかもしれないが、不確かさがあることもまたいなめない。うまい手があるのだとして、それをやろうとするのだとしても、西洋の哲学でいわれる弁証法のようなものがはたらき、よいとされていたことが悪いことに反転することはないことではないから、そこに気をつけることもまたいることだ。よいとされることであっても、その反対物である悪いことに転化することがある。

 参照文献 『憲法の涙 リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください二』井上達夫 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき)