日本の芸能界と、性の加害―どのような点から、批判することができるか

 男性が、男性に性の加害を行なう。

 日本の大手の芸能の事務所では、男性の代表が、男性のアイドルにたいして性の加害をしていたうたがいがある。

 国際連合の人権をになうところが、日本の芸能の事務所による性の加害について、とり上げることにしたという。人権の侵害のうたがいがあるからだろう。

 日本の国の中では、性の加害がかならずしも十分にとり上げられていない。そのことをどのように見なせるだろうか。

 日本の音楽の事務所に属していた人が、性の加害について批判をのべた。批判を言った人は、その事務所から排除されてしまった。

 性の加害について、甘いところがあるのが日本だ。そこには甘えの構造のようなものがあるかもしれない。大手の芸能の事務所にさからえない。そこの代表が、性の加害をしていたとしても、それを批判できづらい。

 特殊におちいってしまっているのが、日本の芸能の世界だろう。固有の性質によってしまっている。特殊さによってしまっていると、倫理や道徳が欠けてしまいやすい。

 戦前の大日本帝国は、特殊さによっていた。なので、倫理や道徳が欠けていた。国の内や外において、悪いことを色々にやったのである。特殊さがわざわいしたのが戦前の日本だ。

 性の行動をやるさいに、大手の芸能の事務所の代表は、どのような意識をもつべきだったのだろうか。性の欲望は強いものであり、その欲望につき動かされて行動してしまうとまずい。できるだけ理性によって抑えをきかせたい。理性で抑えをきかせられれば、被害者を生まずにすむ。

 普遍によるようにすれば、性の行動をやるうえで、被害者を生まずにすむ。大手の芸能の事務所の代表は、性の行動をするさいに、普遍によるようにしていれば、被害者を生まずにすんだだろう。普遍によっていて、つねに当てはまる性質であれば、倫理によることができた。

 男性どうしが性の行動をやるさいだけではなくて、男性と女性が性の行動をやるさいにも、普遍によるようにして、つねに当てはまる性質によっていれば、女性が被害を受けづらい。型(pattern)としては、性の行動では、女性が被害を受けることが多いけど、普遍によるようにすればそれを防ぎやすいのである。

 自分の視点だけによるのだと、自分の性の欲望を満たせればそれでよいのだとなる。そうではなくて、主体である自分ではなくて、客体である相手の視点に立ってみる。行動者なのが主体だ。

 客体の視点に立ってみて、相手はいやではないのかとか、苦痛ではないのかとか、害や損を受けるのではないかとか、あとあとにまでずっと残りつづける心の傷を受けるのではないかとかと想像してみる。

 手つづきとして、性の行動をするさいには、普遍化の可能性の試しをするようにしたい。立ち場や視点の反転の可能性の試しを行なう。そうすれば、主体である自分の視点だけで行動するのではなくて、客体である相手の視点をくみ入れられる。客体の視点からはすごいだめなことなのであれば、普遍化できない差別になっているおそれがあるから、その行動はやらないほうが安全だろう。

 もしも大手の芸能の事務所の代表が、性の加害をやっていたのだとすれば、それは普遍ではないものだ。普遍ではないところに悪さがある。特殊さになってしまっていて、それで性の加害がおきてしまったうたがいがある。

 普遍ではなくて、特殊さになっていると、何でもありだとか、何でもよいとなってしまいかねない。こうであるべきだといった規範がなくなってしまうことになる。自由主義(liberalism)がこわれてしまう。中立な立ち場から判断する思想なのが自由主義だ。自由主義がこわれるのを防ぐために、普遍であるかどうかの点を押さえておく。

 普遍ではなくて、特殊であってもよいのだとしてしまうと、戦前の大日本帝国(のあり方)を良しとするようなことになってしまう。(性の加害から話がずれてしまうけど)戦前の大日本帝国のあり方は、普遍の点からして(普遍である戦後の日本の憲法から)きびしく批判されるべきである。理性によって反省されることがいる。

 参照文献 『ぼくたちの倫理学教室』E・トゥーゲンハット A・M・ビクーニャ C・ロペス 鈴木崇夫(たかお)訳 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『法律より怖い「会社の掟」 不祥事が続く五つの理由』稲垣重雄 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『「戦争と知識人」を読む』加藤周一 凡人会