ロシアとウクライナの戦争と、普遍性と特殊性―普遍性の再認識や再確認がいる

 ロシアとウクライナのあいだで戦争がおきている。

 ロシアはなぜ戦争をしかけたのだろうか。色々なことが関わっているのだろうけど、世界が一極化しているのではなくて、多極化しているのが関わっていそうだ。

 アメリカの一極による支配がくずれていて、世界が多極化している。世界の中で中国が大国として台頭しているのがあり、中国はロシアと距離が近い。

 国際法をやぶって、戦争を行なったのがロシアだ。国際連合の憲章を守らずに、それをやぶって戦争を行なっている。

 国際法とは何かと言えば、そこには普遍性があると言える。西洋による普遍性があるのが国際法だけど、それにたいして特殊性による動きがある。反西洋のあり方がとられている。

 戦争をやっているロシアや、それと距離が近い中国は、普遍性によるよりも特殊性によっているところがある。西洋のあり方であるよりも反西洋のあり方をとっているところがある。

 西洋の普遍性によるあり方が正しくて、反西洋の特殊性のあり方はまちがっているのかと言えば、必ずしもそう言い切れそうにない。いまは世界が多極化していて、ものごとをたしかに基礎づけられなくなっているのがある。基礎づけがなりたたなくなっている。

 どこからどう見ても、まちがいなく西洋は正しいのかといえば、そうは言えそうにない。西洋にたいする批判はいることだろう。アメリカにたいする批判は必要だ。アメリカをふくむ西洋への批判としての、反西洋のあり方は必要なものではある。

 近代の西洋では、普遍性を持ったものが生み出されたのがあり、それらがもつ重要性は見落とせない。普遍性をもつ価値が生み出されたのがあり、個人の基本の人権(fundamental human rights)や民主主義のあり方や戦争を禁じる国際的な法の決まりなどがある。

 すべてがよいことばかりではなくて、悪いこともいろいろにある中で、わずかにはよいものが生み出されたのが近代の西洋だ。そのわずかなよいものである、普遍性の価値をもつ、個人の基本の人権などがあり、それらはできるかぎり重んじるようにして行きたい。

 いまはものごとを基礎づけられなくなっているのがあり、いくら普遍性があることだとはいっても、絶対化することができなくなっている。普遍性にたいして特殊性が力をもつことがおきている。

 いまいちど、普遍性の価値を見直すことがいることだろう。それを見直すようにしないと、近代の西洋でわずかに生み出されたものであるよいものが、すくい上げられなくなってしまう。わずかにはよいものが生み出されたのに、それを活用することがなされなくなってしまう。少しはよいものがあるのだから、せめてそれを十分に活用して行くことがいる。

 あまり単純に普遍性と特殊性を分けることができなくなっていて、それらのあいだの分類の線引きが揺らいでいる。普遍性があるものを基礎づけすることができなくなっていて、絶対化することができなくなっている。特殊性との関係の中にあるものなのが、普遍性があるものだ。

 普遍性と特殊性のあいだの分類の線が揺らいでいて、それらがくるくると反転し合う。普遍性は特殊性から生まれるのがあるし、特殊性から普遍性が生まれるのもある。人為や人工の構築性があることがまぬがれないのが普遍性であり、本質化はできづらい。

 普遍性があることでも、そこに構築性があるから、反証主義における反証(否定)をまぬがれない。反証される可能性をもつ。特殊性があるものからの挑戦を受けることになる。特殊性があるものが力をもつようになれば、それが普遍性をもつことになることがある。哲学者のフリードリヒ・ニーチェ氏がいうところの神の死だ。最高価値の没落であり、価値の多神教だ。

 ロシアは特殊性によっているのだとはいっても、そこに(ある意味での)普遍性を見いだすこともできる。特殊性によるものが、普遍性に挑戦していて、いどみかかっている。

 特殊性が、普遍性をもってしまい、そこからやっかいさがおきる。ロシアには特殊性があるけど、そのロシアがやっていることには普遍性がおきているのもあり、たんに特殊性によるものだとしてロシアを片づけることはできづらい。

 ていどのちがいといったところがあり、離散(digital)であるよりは連続性(analog)がある。ロシアが特殊性によっていて、国として悪いことをやっているのだとしても、それはロシアではないほかの国にも多かれ少なかれ当てはまるところがあり、特殊性が普遍性をもつことになる。

 普遍性が崩れてしまっていて、基礎づけすることができず、絶対化できなくなっている。ロシアが特殊性によっていて、中国もまたそうであるとして、アメリカにもまた特殊性がある。アメリカはそこまでしっかりと普遍性によれていなくて、アメリカは国家主義(nationalism)や自民族中心主義(ethnocentrism)が強い。

 普遍性や、それによる価値を見直して行くさいには、ロシアや中国だけではなくて、アメリカなどのほかのいろいろな国も特殊性によってしまっているところがあるのを見て行きたい。そこまでしっかりと普遍性によれていなくて、普遍性による価値をしっかりと守れていないのが多くの国だ。

 普遍性が崩れている中で、ロシアや中国にかぎらず、どこの国もずるずると特殊性のほうにすべり落ちてしまっている。そのなかで、とくにロシアや中国は、特殊性の極に行きすぎなのがあるから、そこは強く批判されることがいる。

 特殊性の極の反対のものとして、普遍性の極があり、国の形式の枠組みはそれによる。国が特殊性によっているのだとしても、国の形式の枠組みは普遍性をもっていて、それは近代の西洋でつくられたものである。

 国は、多かれ少なかれ普遍性と関わりがあるから、普遍性の点からいろいろに批判がなされることがいる。すでに普遍性と関わってしまっているのが国だから、それがあるなかで、普遍性の価値などによってきびしくあり方が反省されることが必要だ。

 参照文献 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『壊れゆく世界と時代の課題 思考のフロンティア』市野川容孝(やすたか)、小森陽一編 『現代思想の断層 「神なき時代」の模索』徳永恂(まこと) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『反証主義』小河原(こがわら)誠