万博と五輪の、費用に対する効果のじっさいのところ

 もよおしの万博の、費用に対する効果はどれくらいあるのだろうか。

 二〇二五年に関西でもよおされる日本国際博覧会では、なん兆円にものぼるばく大な経済の効果がおきるのだとされている。明らかな正の経済の効果があるのは確かだという。

 そもそも、あらゆるものの費用に対する効果はあいまいだ。はっきりとさせづらいのが費用に対する効果なのである。

 もよおしの五輪(二〇二一年の東京五輪)をもち出してみると、かけた費用にたいしてどれくらいの効果があったのかははっきりとしない。すべての国民にどれくらいの恩恵があったのかは定かではないのがある。

 費用は出であり、効果は入りである。出るものと入るものがあるけど、それらはそこまできっちりとしているものではない。

 すごい少ない出だとされていたのが五輪だ。出が少ないのが五輪だとされていたけど、見通しの甘さがあったのである。とちゅうで出が増えていった。はじめに言っていたのよりも出が多くなったのである。

 少なめにしがちなのが出であり、多めにしがちなのが入りである。見通しが甘くなるのがあり、五輪ではそれがおきた。じっさいにふたを開けてみれば、よけいに出がかかってしまう。出が増えてしまう。

 あらかじめこれくらいの入りがあるだろうとしていたのが、それよりも少ない入りになってしまう。何か思わぬような負のできごとがおきたら、入りが思ったよりも少なくなってしまうことがある。卵がかえる前にひよこの数を数えるなと言われている(Don't count your chickens before they are hatched.)。

 ごまかしをしないで、正直になる。誠実になる。それで万博を見てみると、費用にたいする効果がよいとか悪いとかといったことであるよりも、それをはっきりさせづらい。あいまいなのである。よくわからないものについては、よくわからないのだとするべきであり、あたかもそれがはっきりと分かるかのようにするべきではないだろう。

 すごい費用対効果が高いのだとされているのが万博だけど、そもそもの話として費用対効果ははっきりとさせられないことが多いものだから、あやしさがある。あいまいさがあって明らかにしづらいものを、あたかも明らかにすることができるかのように言っている。分からないことを、あたかも分かるかのように言う。そうだとするとそこには不誠実さがある。

 もうけの話があって、自分が一万円ほど払えば、あとになって一〇万円を得られる。現金で一万円ほど払うことで、あとで現金で一〇万円が得られる。たしかに触知ができる(tangible な)形で、現金を払って、あとで現金を手にできるのだったら確からしさが高い。

 不たしかさがあるのが万博だろう。たしかなのは、税金で費用を払わされる点だ。じっさいに会場に行く人は、入場料などを払う。そこはたしかだけど、見かえりとしてどれくらいの利益が得られるのかは不たしかである。見かえりのところは触知ができない(tangible ではない)。

 ほとんどのものごとは費用対効果がはっきりとしない。それをあたかもはっきりとさせられるかのようにしているのが万博であり、すごい費用対効果が高いかのように関係者は言っている。そこにうさんくささがある。

 費用の痛みは確かにあるのだとしても、効果のところは触知ができない。(絵にかいたもちのように)触知ができない効果でしかなのである。確かに手に取れるような効果があるとはいえず、そこがあやふやだ。わからなくて不明なところは、(分かるかのようにするのではなくて)わからないのだとするのでないと誠実ではない。まるですべてを分かるかのようにするのではなくて、分かるところと分からないところをふ分けしたほうが誠実だ。

 参照文献 『目のつけどころ(が悪ければ、論理力も地頭力も、何の役にも立ちません。)』山田真哉(しんや) 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや)