東京五輪にはたらいていた政治の力学と、それによるかたより―反対派への冷遇

 いろいろな考え方がある中で、デモの参加者がお金をもらっていたとされることをとり上げた。NHK は、東京五輪の反対のデモを、テレビ番組でとり上げたことについて、そう言っていた。テレビ番組では、字幕で、反対のデモの参加者はお金を受けとっていたのだとしていたが、それは適していないことだったのがあり、NHK は謝罪をした。

 たとえいろいろな考え方があるからといって、デモの参加者がお金を受けとったとされることをあたかも事実であるかのようにテレビ番組で報じてもよいのだろうか。そのことについてを決疑論(casuistry)の点から見てみたい。

 決疑論は、一か〇かや白か黒かで割り切るのではなくて、その中間の割り切れないあり方によるものだ。一か〇かや白か黒かではっきりとは割り切れないのだと見なす。

 たしかに、NHK が言うように、いろいろな考え方があるのはたしかだが、それとはちがう点から見てみると、東京五輪つまりよいものだといったことが、上から言われていたことはいなめない。

 一〇〇点か〇点かでいうと、東京五輪をあたかも一〇〇点(に近い)のものであるかのようにしていたのがある。そこに欠けていたのが決疑論のあり方であり、東京五輪の点数をもっとさし引かなければならなかった。点数を引き下げないとならなかった。

 東京五輪の点数が一〇〇点(に近い)とされていたのは、社会問題でいうと、一人勝ち型(valence issues)のようにあつかわれていたのである。一人勝ち型であつかうのには無理があったのがあり、かなり強引なあり方だった。論争型(position issues)であつかうのがふさわしいものだった。

 ほんとうは論争型だったのが、あたかも一人勝ち型であるかのようにされていたのが東京五輪だった。一人勝ち型ではなくて、論争型としてあつかわれていれば、東京五輪の反対派がもっときちんととり上げられていたはずだ。

 東京五輪の反対派がきちんととり上げられず、そこを排除する力が働いていたのである。反対派を排除する力が働いていたのは、東京五輪があたかも一人勝ち型であるかのように見せかけたかったからである。見せかけの神話(myth)によって、東京五輪はよしとされていたところがある。

 反対派は、否定の契機となるものだが、その否定の契機をないことにする力が働いていた。否定の契機をないことにして、それを隠ぺいする。さらに、それをないことにして隠ぺいしたこともまた、ないことにして隠ぺいする。二重の削除や隠ぺいが行なわれたのである。ないことにしたことをないことにして、隠ぺいしたことすらも隠ぺいする。

 もしも、決疑論によっていたのであれば、東京五輪は五〇点くらいしかなくて、反対派もそれと同じくらいの五〇点くらいだといったようにできていた。東京五輪はまったく悪いものとは言えないのにしても、反対派にもまたよいところがあるのだとできていた。それができていなかったのが現実であり、あたかも東京五輪が一〇〇点(に近いもの)であるかのようによそおわれたのである。

 いろいろな考え方があったのにしても、そのなかで、東京五輪をよしとする見なし方がとりわけ特権化されていた。東京五輪をよしとする見なし方が特権化されていたことで、決疑論によるあり方によれなかった。上からの見なし方が特権化されたことによって、一か〇かや白か黒かに割り切る形になったが、じっさいには割り切れるものではなかった。

 作家のウンベルト・エーコ氏は、開かれを言っているが、それからすると、東京五輪はあたかも閉じているものであるかのようにされていたが、じっさいには開いていた。むりやりに閉じようとしていたが、開かれたものだったのである。閉じていれば割り切ることができるが、それができなくて、割り切れない開かれたものだったのである。いろいろな考え方があるのは、開かれたものだが、そうでありながらも、東京五輪のあつかわれ方やとり上げられ方は、閉じたものだった。

 反対派が完ぺきに正しいのだとは言えないのにしても、東京五輪にはさまざまなまずさがあり、いろいろなまちがいや不正を抱えこむことになったのがある。正しさの点で言えば、東京五輪をよしとするのと、反対派とで、どちらのほうが正しいのかは必ずしも定かではない。しっかりと地に足がつかずに、正しさは宙づりになり、漂流する。どちらかだけが正しいのだといったようには正しさを確かには決められないのがあり、決疑論によるようにしたほうがよかったのがある。

 参照文献 『これが「教養」だ』清水真木(まき) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『社会問題とは何か なぜ、どのように生じ、なくなるのか?』ジョエル・ベスト 赤川学監訳 『正しさとは何か』高田明典(あきのり)