新型コロナウイルスにうち勝ったことのあかしと、肯定弁証法と否定弁証法

 新型コロナウィルス(COVID-19)にうち勝つ。それができたことのあかしとして二〇二一年の夏に延期された東京五輪を開く。与党である自由民主党菅義偉首相の政権はそう言っている。

 新型コロナウイルスにうち勝ったことのあかしとははたしていったいどういうことなのだろうか。そのことについてを哲学者のテオドール・アドルノ氏による否定弁証法によって見てみたい。

 二〇二一年の夏に東京五輪を開くとして、それが新型コロナウイルスにうち勝ったことのあかしになるのだろうか。もしもそのようにするのだとすればそれは肯定弁証法になっている。

 西洋の弁証法では正と反と合があり、対立するものどうしが止揚(aufheben)される。そこで気をつけることがいるのは、正と反とがある中でそれをかんたんに合にしてしまわないようにすることだ。かんたんに合にして止揚してしまうと肯定弁証法になってしまい、全体を肯定する物語がとられてしまう。

 対立するものどうしをかんたんに合にして止揚してしまわないようにするのが否定弁証法だ。新型コロナウイルスでいえば、それをたとえうまくおさめられたのだとしても、それによって失われたものがあるのは否定できない。その失われたものをとり上げて行く。うち勝つことができなかったところをとり上げて行く。かんたんに新型コロナウイルスにうち勝ったのだとはしてしまわない。

 たとえ全体として新型コロナウイルスをあるていどおさめることができたのだとしても、そこには全体と部分とのあいだの解釈学による循環の構造があることはいなめない。全体と部分とのあいだには一致しないところがあり、全体に目を向けて言えることであったとしても、それとはちがうことが部分に目を向けると言えることがある。

 全体は非真実であるのがあり、全体で言えることであったとしてもそれがまちがいのない真実だとは言えそうにない。全体において言われている物語があるのだとしても、それがなりたつために部分が捨象されて切り捨てられることがある。そぐわない部分を捨象することによって全体の物語がなりたつ。そこに見うけられるのは肯定弁証法によるあり方である。

 人間の集団が新型コロナウイルスにうち勝つようにするのとはちがう見かたとして、新型コロナウイルスの感染が広がっていることがいろいろなことを浮きぼりにしているのがある。いろいろなことが浮きぼりになっているのは、それを根源から見てみることを試みられるとすると、人間の集団のあり方がかかえるいろいろなまずさだ。そのまずさとは枠組み(paradigm)が抱える負のことがらである。枠組みが内に抱える乱雑さ(entropy)が多くたまっていてそれが外に吐き出されていない。

 これまでの人間の集団がとっている枠組みは必ずしも完ぺきに適正なものだとは言えそうにない。どうしても効率が優先されてしまっているために適正さがないがしろになっている。環境正義などからして適正ではないところが色々にあるが、その色々にある穴に遮へい物のフタでおおい(cover)がされている。それで虚偽意識が大きくなっている。

 これまでの枠組みが当たり前のものとして自明の大前提とされている。そのことを見直して反省して行く。それをするためには肯定弁証法によって全体の物語によって前を向いて行くのではなくて、その逆にうしろを向く。うしろをふり返って行く。

 うしろをふり返っていって、これまでの枠組みによるあり方がかかえているいろいろなまずいところを見つけて行く。自明なものとされている大前提のところを疑って行く。いろいろに開いている穴にかぶされているフタをとってみて、虚偽意識が大きくなっているのをせめて小さくする。それをやらないで前を向いて行くだけだとまた同じまちがいをくり返すことになる。効率はよいかもしれないが適正さを欠く。新型コロナウイルスの感染の広がりはそれをあらわしているところがある。そのように見なしてみたい。

 参照文献 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『現代思想の系譜学』今村仁司 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『正しさとは何か』高田明典(あきのり)