処理水と、語―原子と分子と、語句と文

 語と文の二つから、処理水(汚染水)を見てみる。そうするとどういったことが見えてくるだろうか。

 語に当たるものなのが、原子力発電所から出た処理水だ。

 いくつかの語句があつまれば、一つの文がなりたつ。

 一つの語句にとどまるのが処理水だ。語句にとどまったものとしての処理水は、それが真実だとも言えないし虚偽だとも言えない。

 本当とかまこととも言えないし、うそだとも言えないものなのが、語句としての処理水である。

 語句の内容をとり上げるのが意味論だ。その語句がどういうものを指示しているのかを見て行く。語句が指示するものを見る。

 一つの文になっているものであれば、それが真実なのか虚偽なのかを言うことがなりたつ。真偽の判断の対象となる問題なのが、命題(言明)だ。文の中では、疑問形の文があるけど、それはのぞく。疑問形ではない、平叙(へいじょ)の文である。

 化学でいう原子にあたるのが語だ。単語である。いくつかの語によるのが文であり、分子である。原子がいくつか集まって分子を形づくる。

 分子がいくつか集まり、かたまりになったものは文章だ。たとえばウェブの SNS(social networking service)の X(Twitter)がある。X のつぶやき(tweet)は、文または文章がつぶやかれるから、分子または分子のかたまりである。

 処理水は安全だ。または、処理水は危険である。これらは、文になっているから、命題だ。真偽の判断の対象となる問題である。

 実用主義(pragmatism)の点からしてみると、じかに目にしたり手にとってみたりするものではないのが処理水だ。それをあつかう関係者でないかぎりは、じかに目で見たり手にとってみたりするものなのではない。

 じかに関わりがあったり、じかに接したことがあったりするのなら、それがあるのだとすることがなりたつ。じかに自分が関わることができる範囲を超えたものは、それがあるのかどうかすら疑わしい。実用主義ではそうできる。

 ごくかぎられた範囲のものしか自分がじかに関わることはできづらい。その範囲を超えたものは、報道などを通して情報として知ることができるものであるのにすぎない。本当は無いものなのにもかかわらず、それが有るかのように報道で報じられている疑いがなくはない。実用主義ではそう疑える。

 ほんとうの環境なのではなくて、疑似(ぎじ)の環境になっているのがある。じかにではなくて、間接の形で色々なことを知る。報道によって色々なことを知るのにとどまる。まちがいなく確かであるとできるのであるよりも、不たしかさが大きい。不確実さがある。

 処理水とは話が離れるけど、日本の国についてでは、日本は語句だ。日本と言っただけであれば語句だから、それが真実なのか虚偽なのかを言うことはできない。

 日本はよい国だ。日本は悪い国だ。これらは文だから、命題であり真偽の判断の対象となる問題だ。

 日本や東京電力は、正しいことをやっている。日本や東電は、まちがったことをやっている。これらもまた命題だ。真偽の判断の対象となる問題だ。

 日本は、ある。そう言えるのかといえば、必ずしもそうできないのがある。実用主義からすれば、自分がじかに目にしたり接したりできないものなのが日本である。具体のものであるよりも抽象のものだ。

 日本は無い。あくまでも想像の共同体にすぎない。共同の幻想だ。そのように見なすことは十分に可能だ。少なくとも、自分がじかに目にしたり手にとってみたりすることができる一つの(くだものの)りんごのような、触知が可能(tangible)なものとは言えそうにない。処理水もまた、触知が可能なものではなくて、間接に知ることができるだけだから、もしかしたら無いものかもしれない。

 参照文献 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『現代哲学事典』山崎正一市川浩編 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『唯幻論物語』岸田秀(しゅう) 『神と国家と人間と』長尾龍一