処理水と、うそつき―うそつきは、いつでもうそを言うのか(必ずうそを含意するのか)

 日本の国は、うそつきだ。東京電力は、うそつきだ。言っていることを信用することができない。いったいどうして信用することができるのかとされているのがある。

 うそつきなのが日本の国や東電なのだから、処理水(汚染水)の海洋への放出について、日本や東電が言っていることは信頼することができないのだろうか。

 たしかに、日本の国はしばしばうそをつく。東電も、これまでにうそやごまかしをやってきている。うそつきなところがあるのは確かだ。

 日本の国や東電が言っていることを、そのまま丸ごとうのみにすることはできそうにない。

 原子力発電所から出た処理水は安全だとしているのが日本の国や東電だ。科学として安全だという。そう言っているのを、まちがいなくうそだと決めつけることはできないかもしれない。

 これは本当のことだ。これはまことのことだ。そう言われているものであったとしても、それがうそである見こみがある。反証の可能性があるからだ。うそであることが証明できる可能性(つまり反証の可能性)をもつことがいる。

 日本の国や東電がうそつきなのは、本当だ。まことのことだ。日本の国や東電がうそをついているのは、本当のことであり、まことのことである。日本の国や東電は主体だけど、それらの主体がうそつきだったりうそをついていたりする。そのことが、うそであることがある。

 主体(行動者)がうそつきだったりうそをついていたりする。まちがいなくうそつきだったりうそをついていたりするのだとしてしまうと、反証の可能性がなくなってしまう。

 ぜったいに主体がうそつきだったりうそをついていたりするのかどうかは、実証しづらい。確かには実証できづらいものである。

 日本太郎の名前の人がいるとすると、その日本太郎氏が言うことであれば、うそである。日本太郎氏はうそつきなのがある。それでも、ときどきは日本太郎氏は本当やまことのことを言うかもしれない。たまにはうそをつかないで、本当やまことのことを言うことがある。そうであれば、うそつきやうそをつくことの反例(反対となる事例)があることになる。

 範ちゅうと価値で見てみると、日本の国や東電が言っていることのすべてがある。範ちゅうの全体だ。集合である。日本の国や東電が言っていることの範ちゅうの、すべての発言を見て行くことはできづらい。よほどひまな人でないかぎりは、範ちゅうのぜんぶを確かめるゆとりはないだろう。

 範ちゅうの中には色々な価値をもつものを含む。うそであるものは反価値だ。本当やまことのことは正の価値だ。日本の国や東電が言っていることの範ちゅうの中には、少しくらいは正の価値のものが含まれているものだろう。ぜんぶが負の価値のものだとは言い切りづらい。

 体系(system)として見てみると、日本の国や東電が言っていることの体系(集合)の中には、少しくらいは正の価値のものを含む。本当やまことのことを、たまには言う。いつもいつも本当やまことのことを言うのではないが、まれには言うことがあり、まぎらわしい。ややこしい。MECE(ミーシー、相互性 mutually、重複しない exclusive、全体性 collectively、漏れなし exhaustive)でとらえてみるとそうとらえることが成り立つ。

 何がかんじんなことなのかといえば、日本の国を疑うようにすることだけではない。東電を疑うことだけではない。疑うことはとても大事だけど、それだけではなくて、反証の可能性をもつようにすることがいる。

 反証の可能性をもたないと、日本の国や東電のことを、うそつきだとしたり、うそをついているのにちがいないとしたりしてしまう。頭から決めつけてしまう。頭から決めつけてしまうとやりすぎなところがある。

 その主体がうそつきだとしたり、うそをついているとしたりするのだとしても、それは反証の可能性をもつ。その主体はうそつきだ、またはうそをついているとしていることが、うそであるかもしれない。本当やまことではないかもしれない。いついかなるさいにもうそをつくとは言い切れないところがある。

 うそつきだとされていたり、うそだとされていたりしていても、反証の可能性をもつから、(うそつきだったりうそをついていたりするのが)本当ではなかったりまことではなかったりすることがある。

 あらゆるものは、たとえこれこれだと言われているのだとしても、それがうそであることがあり、本当ではなかったりまことではなかったりすることがあるので、そこに気をつけるようにしたい。

 ある主体がうそつきだったりうそをついていたりするのであるよりは、ぜんぶの主体がそうであるおそれがある。ぜんぶの主体が言うことは、反証の可能性をもつ。たとえ日本の国や東電を批判する批判者であったとしても、その批判者が言うこともまた、反証の可能性をもっていなければならない。

 どの主体が言うことであったとしても、すべての主体が言うことが、反証の可能性をもつ。そうでないと平等ではなくなってしまう。日本の国や東電を批判する批判者であれば、反証の可能性を持たなくてよいわけではない。批判者であれば反証の可能性をもたなくてもよいのだと、不平等になってしまうし、甘えがおきてしまう。

 主体が何かを言うからには、それがどういった主体であったとしても、反証の可能性をもつようにすることがいる。甘いあり方ではなくてきびしいあり方であるようにするためには、そうであることがいる。あらゆる主体が言うことは、他からの批判に開かれていることがいり、他からの批判にさらされるのを良しとすることがのぞましい。

 参照文献 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『ホモ・メンティエンス(虚言人)』外山滋比古(とやましげひこ) 『科学との正しい付き合い方 疑うことからはじめよう』内田麻理香 『うたがいの神様』千原ジュニア 『本当にわかる論理学』三浦俊彦