日本の国の借金は、だれの(だれが返さなければならない)借金なのか―国または国民の借金と、交通論

 日本の借金は、日本人(国民)の借金ではない。だけど、国債の利子の支払いや償還(しょうかん)は、税金を使うことがいる。岸田首相はそう言っていた。

 政府の借金なのであり、日本人の借金ではないと、自由民主党岸田文雄首相は言うが、それは当たっているのだろうか。

 日本の国民の借金ではないのであれば、国債の利払いや償還を、税金でやるのはおかしい。れいわ新選組の政治家はそう言っていた。ほかの人(他人)の借金の利払いや償還を、なんで日本人がやらないとならないのか。国債の利払いや償還を、日本人の税金でやることはいらないのだと言う。

 たしかに、れいわ新選組の政治家が言うように、もしも日本の国の借金が、政府の借金であり、日本人の借金ではないのであれば、利払いや償還を日本人の税金でやるのはおかしいことだろう。りくつに合わないことである。

 日本の国の借金を、交通の点から見てみたい。交通の点からすると、日本の国の借金が、つまり日本人の借金なのであれば、双方向の双交通だ。国の借金、つまり国民の借金だ。

 政府の借金ではあるけど、日本人(国民)の借金ではないのであれば、国と国民とのあいだにへだたりがあり、さえぎられているから、反交通だ。国の借金は、つまり国民の借金ではない。

 国の借金を、国民が背負わせられる。借金を国民が負わされる。これは、逆方向の単交通だ。単交通は一方向のものであり、それの逆の方向だから能動ではなくて受動だ。何々するのではなくて、何々させられる(何々される)。

 どちらかといえば、いまの日本人が、国の借金を引き受けさせられるのではなくて、将来の日本人に引き受けさせているのがある。いまの時点であるよりは、将来の時点の日本人に国の借金を背負わせるのだから、将来の日本人への逆方向の単交通だ。

 岸田首相が正しいことを言っているのか、それともれいわ新選組の政治家が正しいことを言っているのか。財政で、緊縮派が正しいことを言っているのか、それとも反緊縮派が正しいことを言っているのかがある。

 実用主義(pragmatism)や決疑論(casuistry)の点で見てみると、岸田首相と、れいわ新選組の政治家が言っていることは、それぞれが半分ずつくらい正しく、半分ずつくらいまちがっているかもしれない。

 反証主義(falsificationism)では、うそであることが証明できる可能性がなければならない。うそとは、交通でいえば、言葉の反交通だ。

 岸田首相が言っていることと、れいわ新選組の政治家が言っていることは、ともに、うそである可能性を持つことがいり、言葉の反交通である見こみを持つことがいる。反証主義からすればそう見なせる。

 言っていることが、ほんとうであったり、まことであったりするのであれば、うそではないことになり、言葉の反交通ではないことになる。

 国の借金については、それが日本人の借金に当たるのだと言うのと、当たらないのだと言うのとがあるけど、その二つの発言のどちらにも、ほんとうではないのや、まことではない見こみがあるものだろう。うそであり、言葉の反交通である見こみがある。

 まさにほんとうであり、まことであるといえるのが、お金なのだとは言えそうにない。お金(日本の円)は、なぞのものであり、それがそれだからそれなのだといった、自己循環論法によっているものだ。お金それじたいが、ほんとうではないのや、まことではないものであり、うそのものだ。うそである、言葉の反交通によるものがお金である。

 人間が信じこんでいるうそであるのがお金であり、言葉の反交通によるものだ。人間は本能がこわれているから、文化をつくり上げる。その文化の一つに当たるのがお金であり、文化を批判することがいるのもある。たんなる紙切れ(紙くず)にすぎないものを、価値があるお金だとしているのがあり、それに価値があるのだとするのは、改めて見ると、うそであり、言葉の反交通であるのはいなめない。

 参照文献 『これが「教養」だ』清水真木(まき) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『資本主義から市民主義へ』岩井克人(かつひと) 聞き手 三浦雅士 『唯幻論物語』岸田秀(しゅう) 『日本国はいくら借金できるのか? 国債破綻ドミノ』川北隆雄 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫(かおる) 『数学的思考の技術 不確実な世界を見通すヒント』小島寛之(ひろゆき)