処理水そのものと、それの表象―だれが(どの立ち場の人が)それを表象しているのか

 原発の処理水を、海に流す。それが日本で行なわれようとしている。

 処理水は安全なものなのだから、それを危ないものだと見なすのはまちがっているのだろうか。風評の被害がおきるのはよくないことなのだろうか。

 汚染された水を処理したものなのが処理水だ。それについてをどのように見なすのかで、参照の点が関わる。

 ものを認知するさいに、それがすごい安全なものなのか、それともとんでもなく危ないものなのかは、参照の点の高さや低さによる。認知におけるものだ。

 参照の点が低ければ、処理水は安全だとなる。それが高ければ、すごい危ないものなのだとなる。

 どの高さに参照の点を定めるのがのぞましいのかがある。低いほうがよいのか、それとも高いほうがよいのかだ。一つの位置に固定化させずに、いろいろと参照点の高さを動かしてみたほうが良さそうだ。

 もしも処理水がすごい安全なものなのであれば、参照の点を高くするのは適していないことになるかもしれない。その点を高くして、ものすごい危ないものなのだと見なすと、じっさいには安全なものなのにその安全性を否定することになってしまう。

 どの高さに参照の点を置けば、じっさいの処理水のありようと合うことになるのだろうか。それは定かとは言えそうにない。どの高さに点を定めたとしても、じっさいの処理水とは合わずにずれてしまう。合わずにずれてしまっている見こみがある。

 ちょうどそのものとぴったりの見なし方だとちょうどよい(just である)。それを原型(presentation)であるとすると、原型からのずれがおきる。加上(かじょう)の作用だ。

 ちょうど原型とぴたりと合っているのではなくて、そこからのずれがおきる。何かがつけ足されている。処理水そのものは原型だけど、それをどのように見なすのかはそれについての表象(representation)であり、そこに加上の作用がはたらく。

 心の像(image)が外に表現されたものなのが表象だ。

 客体なのが処理水であり、それをとらえるのは主体だ。客体をとらえるさいに、客体そのものではなくて、主体がとらえたところのものになる。主体がとらえたところのものとしての客体だ。主体による客体の表象である。客体に何かをつけ足すことが行なわれて、加上の作用がおきる。

 かりに処理水が危ないものなのだとしても、それを海に流すことで、海の中における自然の浄化の力がのぞめる。自然には悪いものを同化や吸収する力があるから、それをあらかじめくみ入れているのはあるのかもしれない。ただし、自然の同化や吸収の力には限界があるから、害を受け入れられる限度があることに気をつけないとならない。

 第二次世界大戦のときに、アメリカが日本の長崎県広島県原子爆弾を落とした。ニ発の原爆をアメリカは日本に落として、もう長崎県広島県にはこれから先に長いあいだにわたって生きものは住めないと言われた。人は住めないし、植物なんかも生えないとされたのである。

 自然のもつ同化や吸収の力が働いたためなのか、長崎県広島県には、原爆が落とされたあとに、人が住むことができたし、植物も生えてきた。その土地が、生きものが住めないくらいにひどいありようになるのは避けられたのである。

 事実として、どれくらい処理水が危ないものなのか(安全なものなのか)は完全に確かだとは言えそうにない。まちがいなく安全だとは断言することはできそうにない。すごい安全なのだとされているのが処理水だけど、それをまちがいなく実証することはできず、反証される見こみをもつ。うそであることが証明できる可能性をもつ(その可能性を持っていなくてはならない)。

 原型としての処理水を、どのように表象したとしても、それが反証される見こみがある。安全だとしていてもじつは危なかったり、危ないとしていてもそれなりに安全だったり(そこまで危なくなかったり)することがある。原型にたいして何かがつけ足されている加上の作用がはたらくのがあり、人それぞれの表象のし方や加上の作用のはたらかせ方がある。

 参照文献 『環境 思考のフロンティア』諸富徹(もろとみとおる) 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『ホモ・メンティエンス(虚言人)』外山滋比古(とやましげひこ) 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『できる大人はこう考える』高瀬淳一