処理水の呼び名の正当性を問いかける―原発から排出された水についての、ふさわしい名前の付け方なのか

 処理水を、海に流す。原発から出た水を海に流すことが探られている。

 安全なものなのが処理水なのだから、それを海に流しても大丈夫なのだろうか。

 原子力発電所から出たものなのが処理水であり、汚染されたものだ。いくら処理をして汚染をとり除いているとはいっても、まちがいなく一〇割において安全だとは言い切れそうにない。一〇割において完ぺきに安全だと言ってしまうと科学とは言えなくなってしまう。

 改めて見てみると、処理水と言われているのは、そう名づけられていることによる。名づけられているものは、実体(substance)だ。

 原発から出た汚れた水は、実体であり、それを処理水と名づけることもできるし、汚染水と名づけることもなりたつ。

 たとえそれを処理水と言えと上(日本の政府)から命じられていたとしても、ほかの言い方でも言うことができる。どういう言い方で言っても、実体は同じである。

 名づけ方は色々にできるのがあって、実体と名前の組みがある。実体にたいして一つだけではなくていくつもの名前を付けられることがあり、いくつもの名前をもつ実体がある。

 海に流そうとしている実体がある。その実体がすごく安全なものなのであるのならば、その実体を処理水と呼ぼうが汚染水と呼ぼうが、いずれにしても安全なのだから、ちがいはない。呼び名はちがっていても、実体は同じだからである。

 一つだけの名前では、その実体を言いつくせない。もれがおきてしまう。そういったことがあり、原発から出た汚れた水を、処理水と呼ぶだけでは、もれがおきてしまいかねない。もしかしたら、実体を言いつくせていないかもしれない。

 ほんとうにげんみつにその実体をあらわす名前をつけるのであれば、すごく長い名前になるかもしれない。その実体に含まれている成分をぜんぶ名前に入れこむ。害がある成分が色々に含まれているから、それらをぜんぶ名前に含めれば、その実体に近い名前にすることがなりたつ。

 できるだけ言いやすい名前にしたほうが経済性がある。短めの名前でその実体を言ったほうが経済性が高いから、合理性があることになる。合理性があるけど、そのうらで、不都合なことが隠ぺいされるおそれがおきてしまう。

 名前がその実体にくっついてしまっているのがあるとしたら、実体から名前を引きはがす。すでにくっついて定着している名前を、いまいちど実体から引きはがしてみれば、その名前に必ずしも自明性がないことが浮かび上がってくる。ぐう然性をもつ。必然性がない。そういったことが中にはある。自然化されているのを、脱自然化して行く。ちがう名前でその実体を言ったほうがよりふさわしいことが見えてくることがある。

 汚染水なくして処理水なし。処理水なくして汚染水なし。そう言ったことも言えるかもしれない。汚染されていた水を処理したものなのが処理水なのだから、かつてのものが汚染水であることになる。いまとかつてのいまかつて間の時間の交通からすると、かつてなくして今はなく、今がなければかつてはない。かつてがあって今があるのだから、汚染水があることによって処理水がある。

 汚染水(他者)があるおかげで処理水(自分)があるといったことがなりたつ。他者と自分との関係性であり他と自との交通だ。かっことした同一の実体なのではなくて、あくまでも関係性としてしかないのが他と自だ。関係主義からすればそうとらえることがなりたつ。

 参照文献 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫(かおる)