大阪府の大阪都構想の住民投票と情報の汚染―情報の中の意図の混入

 大阪府で二回目の大阪都構想住民投票が行なわれた。その結果が出て、一回目とおなじく否決されることになった。一回目と同じように二回目もまた大阪都構想をよしとするのとよしとしないのとでほぼ五対五といってよいようなわずかな差となった。一回目も今回の二回目もわずかに反対派が上回るかたちとなっている。

 大阪都構想住民投票についてをプラスとマイナスの二つに分けて見られるとするとどういったことが言えるだろうか。人それぞれによっていろいろな見かたがなりたつのにちがいないが、その中で、まったくプラスとなるところがなかったとは言えないが、少なからぬマイナスがあったのではないだろうか。

 プラスとなることつまり順機能(function)もあっただろうが、マイナスとなるところつまり逆機能(dysfunction)もあったことによって、いろいろなゆがみやひずみがおきているおそれがある。そのゆがみやひずみの一つとして、二回の大阪都構想住民投票にかけた税金がそれなりの額にのぼっている。この税金はもっとほかの有意義な使いみちがあったのではないだろうか。

 大阪府はとても大きな地方自治体であり、そこで住民投票を行なうのは、それなりのもよおしとなる。どうしてもお祭りさわぎのようになってしまうところがあり、着実に地道に政治の話し合いをやって行こうといったことにはなりづらい。とにかく住民投票をやってとにかく勝ちさえすればそれでよいのだといったところが大阪府と大坂市の政治をつかさどる日本維新の会にはあったのではないだろうか。

 ことわざで言われる勝てば官軍のようにして、とにかく住民投票をやってとにかくたった一票でも上回ることによって勝ちさえすればそれでよいのだとする。そこに欠けてしまっているのは、負けたことのさまざまな意味あいを読みとることだろう。一回目の住民投票ではわずかに反対派が上回ったのがあり、そこで負けの結果が出たことから日本維新の会はもっといろいろな意味あいを学びとることができたとすると、それができたらよかった。日本維新の会はもっと科学のゆとりを持てたほうがよかったかもしれない。

 たんに表面として住民投票で負けの結果が出たと受けとるのではなくて、それがあらわしているいろいろな意味あいを読みとることもできただろう。勝つことよりも負けることからのほうがよりいろいろなことを学ぶことができるのがある。野球の野村克也監督がいうように、負けに不思議の負けなしである(もしかしたら例外はあるかもしれないが)。

 日本維新の会は負けの結果からいろいろな意味あいを読みとることを怠っていたのだとすると、それができていたほうがよかった。それができていれば、二回目の住民投票を行なうことにもっとずっと慎重になれた見こみがある。新型コロナウイルス(COVID-19)が広まっている状況の中であるのにもかかわらず住民投票を行なうことについてふみとどまれたのがあるかもしれない。もっと科学のゆとりを持つことができた見こみがある。

 住民投票が行なわれている中では、新聞社の記事について日本維新の会の政治家や関係者がデマだとか大誤報だとかといったことを言っていた。記事がデマか大誤報かといったことより以前に、そもそもの話としていろいろに流通している情報の中に汚染が多すぎている。汚染とは意図のことだ。政治性や作為性だ。いろいろな意図が含まれた情報がいろいろに流されているから、その汚染がどれくらいかのていどのちがいにすぎない。ひどい汚染の情報も平気で流されてしまっている。それがおきてしまっているのは、勝てば官軍といったことで、とにかくたった一票でも上回って勝つことができさえすればそれでよいのだといったことから来ているものだろう。

 盛り上がりはするのだとしてもいろいろな必要より以上の汚染された情報が多く流されてしまうのでは、複雑な現実をなるべく正確にとらえながら政治についてを話し合って進めて行くことはできづらい。たとえ盛り上がりに欠けるのはあるのだとしても、できるだけ静かに政治についてを話し合うようにして、汚染された情報が多く流れないようにして、汚染の度合いを少しでも減らして行く。その中で複雑な現実をくみ入れながらかんたんに現実を単純化しないようにしつつ話し合いをして政治のものごとを少しずつ進めていったほうがどちらかといえばよいのではないだろうか。

 参照文献 『静かに「政治」の話を続けよう』岡田憲治(けんじ) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『情報汚染の時代』高田明典(あきのり)