日本学術会議の人を選ぶ選びかたをどうするのかと、(そもそもの話として)人が人を選ぶことの困難さ―脱産業社会の中で人を選ぶことができづらい状況になっている

 会に人を選ぶ選びかたに多様性がない。多様性がとぼしい。社会の中の官から民までいろいろな人が選ばれていない。日本学術会議の人を選ぶあり方について、与党である自由民主党菅義偉首相はそうしたことがよくないのだと言っていた。

 菅首相が言うように、日本学術会議の人の選びかたにはいろいろによくないところがあって、画一化してしまっているのだろうか。ひどくかたよりがありすぎるのだろうか。そのかたよりは許容できる範囲の内にあるのかそれとも外にあるのだろうか。

 多様性についてを菅首相は持ち出しているが、多様性とはいってもそれはあいまいな意味あいをもつ。多義性がある。なので、何が具体として多様性があることになるのかはわかりづらく、線引きを客観にはっきりとは引きづらい。修辞学でいわれる多義またはあいまいさの虚偽におちいるのに気をつけるべきだろう。

 日本の社会は同質性が強いために、多様性の語にプラスの意味あいがもたれづらい。多様性があることは、自分と合わない人がいることに自分が耐えることやがまんをすることだといった否定の意味あいでとらえられていることがある。これは現実主義のとらえ方だが、それとはちがう理想主義の意味あいもあり、多民族がいっしょに混ざり合って生きている社会においては多様性の語はプラスの理想主義の意味あいでとらえられやすいとされる。

 かたよりがないように人を選ぶことができるのかといえば、それは難しいのがあり、たとえ菅首相が自分で人を選んだとしても、そこにははなはだしいかたよりがおきるものだろう。

 いまの時代に人が人を選ぶことには困難さがつきまとう。それが言われているのがある。いまの時代はただ決まりきった型に従って生きて行けばよいのではなくて、その型が崩れて久しい。大量生産と大量消費の産業社会のときにはあるていどの型があったが、脱産業社会になっていることで型がなくなっている。型による標準がなくなっている。よい学校を出て安定したよい会社(大企業など)に入って人生が安泰になるといった産業社会の学歴の型が通じなくなっている。

 脱産業社会の中では社会の中の人の生き方が多様化している。みんなが正社員になれるのではなく、なれる人もいればなれない人もいて、非正規社員も多い。人それぞれでいろいろになっているが、社会の中の制度がそれに合わなくなっていて久しい。制度が硬直化してしまっていて、柔軟性がなく、制度にいろいろな穴が空いている。いまだに産業社会のときの型や標準があったときの制度が引きつづいてしまっている。

 脱産業社会の中では個人の創造性が求められるが、創造性があるかないかを見きわめるのははなはだしく難しく、そこから人が人を選ぶことの困難さが引きおこってくる。創造性のあるなしの点から人を見抜くことや目利きをすることはできづらい。それができづらいことの具体の例としては、他国のことを持ち出してはまずいかもしれないが、アメリカの大統領などがあげられる(あえて日本の国の政治については言わないが)。これは学者のローレンス・J・ピーター氏のいうピーターの法則に通じるものだ。

 政権が人を選ぶさいにも、多様性の点から人を選んでいるのではなくて、たんに政権の顔色をうかがってそんたくをしてくれるたいこ持ちや権力の奴隷が選ばれやすい。政権に自発に服従してくれて、権力からの呼びかけにすなおに従ってくれる人が政権から選ばれやすい。そこにいちじるしく欠けているのが創造性だ。

 政権と学者の世界を対比してみると、政権は政治家の集まりであり、とくに何の専門家でもないものだろう。政治家は選挙で選ばれさえすればたとえ素人でも政治家になれる。政治家だからといって政治の一般についての専門家とは言えない。

 政治家は政治の権力をもっている点で権威ではあるが、その権威は信じられるよりも疑われたほうがよいものだろう。そのいっぽうで学者の世界の権威は、細分化されたいろいろな分野における権威だし、それらを総合した学問の分野の権威であり、あるものごとの専門性をもっている。

 政治家の権威とはちがって学問の世界の権威であれば、そこでの総意によるのであればその権威は受け入れられることに論理的な合理性があるていどあるとされる。ある専門の分野においてかんかんがくがくのはげしい論争が巻きおこっているものではなくほぼ総意となっていることについては、受け入れたほうが論理的に合理的であり、その合理性とは説における定説と独自説のちがいである。

 定説と独自説ではちがいがあり、どちらかといえば政権が言っていることは独自説の見こみがある。政権は何かの専門家とは言えないから、政権が言っていることがすぐに定説になるわけではなく、せいぜいが独自の説にとどまるものだろう。

 政治家の言うことに比べれば定説になりやすいのが学者の世界であり、学者は学問の専門家であり、また何かの細分化されたところの専門家でもあるから、その世界の中でかんかんがくがくのはげしい論争になっていなくて、ほぼ総意が得られているのであれば、それは定説のようなものと言ってよいものだから、その権威は受け入れることに論理的な合理性があるものだろう。少なくとも政治家が言っていることよりはおそらくは合理性が高いものだとできる。

 定説となるようなことを言えずにせいぜいが独自の説にとどまるのが政権の言うことだが、これはそもそもの話として政権が日本学術会議や学問の世界についてをろくにわかっていないのにもかかわらずなぜかわかっているかのようにしてしゃしゃり出ていって首をつっこんでいることからもうかがえる。もともとそうであることがわかっているために、政権がしゃしゃり出ていって首をつっこまなくてもよいように形式がなっているし、政権が首をつっこめないように形式がなっていた。その形式の慣習を政権(まえの安倍晋三前首相のときから)が破ったのがある。

 政権にはもともと定説となるような説を形づくる力がないし、せいぜいが言えても独自の説にとどまるのがあるから、それをくみ入れた形で形式がつくられていたのがある。そういうふうに形式をとらえることができるとすると、その形式の持つ意味あいがとらえられていずに、また日本学術会議や学問の世界がもつ意味あいをとらえられていないから、政権がそのことについて創造性をもてるのだとは見なしづらく、できたとしてもきわめて創造性が低いことにとどまるのではないだろうか。

 もともと政権が日本学術会議や学問のことについてもつ創造性は低いのだから、そのことがくみ入れられた形で、政権がいちいちへたにしゃしゃり出ていって首をつっこまなくてもよいように形式がつくられているのがあり、政権はその形式を守っていたほうが安全だったのではないだろうか。形式を守ったうえで、もしもまずいところが客観にあると言えるのであればそれをとり上げるようにしたほうがさしさわりは少なかっただろう。

 参照文献 『個人を幸福にしない日本の組織』太田肇(はじめ) 『創造力をみがくヒント』伊藤進 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『論理病をなおす! 処方箋としての詭弁』香西秀信現代思想を読む事典』今村仁司編 『ここがおかしい日本の社会保障山田昌弘 『悩める日本人 「人生案内」に見る現代社会の姿』山田昌弘