サタンは、いるのか―サタンつまり悪魔と神さまと、それぞれの枠組み

 サタンがいるのだとされている。サタンつまり悪魔がいて、それが喜ぶようなことはしてはならない。韓国の新宗教(新興宗教)ではそう言われているという。

 悪いことをすると、サタンつまり悪魔が喜ぶから、それをしてはならないのだろうか。

 悪魔がいるのだとするのは、神さまがいるのだとするのと同じで、科学によるのではない。非科学である。

 悪魔にまつわることでは、こうしたまずさがおきてくる。一つには、悪魔と神さまは、正反対のものだけど、その二つのあいだにはきっちりとは線を引きづらい。

 悪魔が逆転して神さまになったり、神さまが逆転して悪魔になったりする。純粋な悪魔はいないし、純粋な神さまもいない。

 これが悪魔そのものなのだとは、基礎づけたりしたて上げたりできづらい。神さまについても同じことが言えて、それを基礎づけたりしたて上げたりできづらい。

 何が悪魔で、何が神さまなのかは、見分けがつきづらい。悪魔だと思っていたら、それが神さまだった。神さまだと思っていたら、それが悪魔だった。悪魔と神さまの取りちがえがおきることになる。

 神さまだと思っていたら、じつは人間だったのが、昭和天皇だ。人によっては、昭和天皇は悪魔だった。生きている神さまだとされていた昭和天皇によって、害や損を受けた人は少なくない。戦前は、天皇のために死ねと言われていた。

 客観にどこかに悪魔がいたり神さまがいたりするのとはちがう。実体としてそれらがいるのではなくて、枠組み(framework)を通すことによって、それらがいるのだとされることになる。

 そこらへんにいる猫や犬にとっては、悪魔も神さまもいない。猫や犬にとっては、それらは無いものである。人間がもつ観念によることで、それらがいるのだとされることになる。人間がもつ枠組みによってなりたつものだ。

 悪魔がいなければ神さまはいないし、神さまがいなければ悪魔はいない。それらはお互いに関係し合う。記号としてお互いに関係し合っている。悪魔の記号表現(signifier)と神さまの記号表現があり、それらがあらわす記号内容(signified)がある。

 記号内容としては、客観の何かをさし示すものではない。記号表現として、悪魔や神さまの語が使われるのだとしても、その記号内容は、不たしかなものだ。実体が無いものなのが、悪魔や神さまだから、記号内容は不在である。記号内容としては、直接には現前しないものであり、あくまでも表象(representation)でしかない。現前(presentation)ではなくて、再現前のものである。

 アクマとカミサマは、記号によって分けているものだけど、その分け方は、枠組みを通したものである。枠組みを抜きにしてなりたつものではない。どういう記号の分け方をするのかは、価値にもとづく。価値は主観性によるものだから、価値を共有している者どうしでないと成り立たない。

 ねんぶつや真珠や小判は、価値を共有している者どうしのあいだでは、価値があるものだとされる。価値を共有していない、馬や豚や猫などには、価値が無いものである。人間のもつ枠組みと、馬や豚や猫がもつ枠組みとは、異なっている。

 悪魔がいるのだとするのだとしても、それは人間がもつ枠組みを通しているから、その枠組みを抜きにしてまでなりたつものではない。枠組みによって記号の分け方が決まるけど、そこに価値を見いだす人とそうではない人がおきてくる。

 悪魔がもつ枠組みと、神さまがもつ枠組みは、それぞれでちがっているととらえられる。悪魔や神さまが、もしも人(人のようなもの)だとすれば、そうできる。枠組みによって悪魔がなりたち、枠組みによって神さまがなりたつ。はじめに、枠組みありきである。悪魔は、自分がよって立つ枠組みを絶対化してはならないし、神さまも、自分がよって立つ枠組みを絶対化しないようにすることがいる。

 枠組みを抜きにしたら、悪魔も神さまもないから、どういう枠組みによって立っているのかを、いまいちどふり返ることがいる。韓国の新宗教であれば、それがよって立っている枠組みがあるから、それを絶対化しないようにしたい。絶対化してしまうと狂信になる。教義(dogma、assumption)や教条を絶対化する、教条主義におちいる。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『神と国家と人間と』長尾龍一 『現実はいつも対話から生まれる 社会構成主義入門』ケネス・J・ガーゲン メアリー・ガーゲン 伊藤守監訳、二宮美樹翻訳統括