安倍元首相の、何(what)となぜ(why)―なぜあれだけ政界で力を持てていたのか

 安倍元首相が、殺された。国葬が行なわれることが探られている。

 安倍晋三元首相は、いったいどういった人物だったのだろうか。

 ただの人だったのが、安倍元首相だ。実存として見てみればそうできる。

 国の政治家で、首相を長くつとめていたのが安倍元首相だが、そこに必然性はない。

 だれかが政治家になることに、必然性はない。安倍元首相と、安倍元首相が政治家であることとの結びつきは、必然のものではなくて、ぐう然のものだった。偶有性がある。

 ある人と、その人が政治家であることとの結びつきは、気ままなものである、恣意(しい)性による。たまたまその人が政治家になれただけなのにすぎない。

 ほかの人よりも、政治家になりやすかったのがあったのが安倍元首相だ。世襲制で、祖父や父が政治家だった家に生まれたからだ。

 世襲制によっていたことから、三バンの地盤(後援会)と看板(知名度)とかばん(財力)のどれもを十分に持っていた。政治家になるのに、有利なところにもともといたのが、安倍元首相である。

 構造の問題として、世襲制は悪いのがあるから、それに乗っかって政治家になった安倍元首相には、悪さがある。世襲制を温存しつづけたのがあり、それを改めようとしなかった。改善しようとはしなかった。

 日本の国の政治家だったのが安倍元首相だが、日本の国は共同幻想であるのにすぎない。共同の幻想なのが日本の国だから、じっさいには無いものである。想像の共同体だ。

 韓国の新宗教と結びついていたのが安倍元首相だが、そこには、日本の国が幻想であることが示されている。日本と韓国とのあいだに、しっかりとした線が引かれていないことをしめす。日韓が、ゆ着し合っていたのがある。内つまり日本と、外つまり韓国とが、たがいに流通し合う。

 表象(representation)として見てみると、いろいろなものが付着しているのが、安倍元首相だ。まわりにいろいろなものが付着していて、それででき上がっているのが安倍元首相についての表象だが、そこに核となるものがあるのかといえば、見当たりそうにない。

 核となるものはなくて、中心が空(くう)で、その空である中心のまわりに、いろいろなものが付着している。中心は虚無であり、虚無主義(nihilism)による。虚無であることから、政治において、いろいろな悪がなされることになった。いろいろな政治の不祥事がなされることになったのである。

 空である中心のまわりに付着しているいろいろなものは、仮のものであり、必然性はない。安倍元首相のまわりに付着しているいろいろなものは、ぐう然にくっついているものにすぎず、気ままさによっていて、恣意性による。

 日本の国を代表する政治家だったのが安倍元首相だ。日本の国のど真ん中にいた政治家だ。安倍元首相に代表されていたところの、日本の国とはいったい何かを見てみると、それは幻想である。まぼろしである。

 幻想やまぼろしと言うと、やや言いすぎであるとしても、少なくとも、日本の国にはかっことした自明性がなくなっている。たしかな自明性があるのではなくなっている。日本の国には、本質は無い。

 本質主義からすると、本質は存在に先だつ。実存主義からすれば、実存は本質に先だつ。実存の点からすると、安倍元首相は、ただの人だった。ただの一人の個人だったのにとどまる。

 ただの人であるより以上に、安倍元首相が政治家として活躍できていたのは、世襲制の構造によっていたのが大きいものだろう。世襲制の構造に思いきり寄りかかっていたのだから、ほめられたことではなかった。

 国を代表して、国の中心のど真ん中にいたことは、政治家としてすごいことではある。すごいのはあるが、それを批判して見るとすると、たんに、多数派から支持されていただけなのにすぎない。多数から支持されていたのは、必ずしもすごいことではない。

 多数によるからといって、それが正しいことを意味するのではない。多数によっていた(多数から支持されていた)からこそ悪かったとかだめだったとすることもなりたつ。多数によっていて、それがまちがっていたり、質が悪かったりすることはしばしばある。たとえば、テレビの視聴率などをあげられる。

 参照文献 『世襲議員 構造と問題点』稲井田茂 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『リヴァイアサン 近代国家の思想と歴史』長尾龍一 『悪の力』姜尚中(かんさんじゅん) 『「Why 型思考」が仕事を変える 鋭いアウトプットを出せる人の「頭の使い方」』細谷功(ほそやいさお) 『夢を見るために 毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集一九九七‐二〇一一』村上春樹