万博(ばんぱく)への、思いがある。
維新の会の、万博への思いを、そんたくする。維新の会の思いをそんたくしてみると、どういうことが見えてくるだろうか。
動機論のそんたくをしてみる。野党である日本維新の会(第二自由民主党)の、万博への思いをそんたくしてみると、動機づけ(motivation)のうちで、外発のものしかもっていない。そうとらえられそうだ。
二〇二五年によていされているのが、大阪・関西万博(日本国際博覧会)だ。それに対して、外発の動機づけしか持っていないのが維新の会なのである。
何かをうまくなすためには、動機づけの中で、内発と外発の二つを共にもつことがいる。二つの動機づけを持っていないと、目標を達しづらい。
自分の利益になるかどうかは、外発の動機づけだ。
自分の利益になろうとなるまいと、それを抜きにして、そのことそのものに興味をもつ。それそのものに関心をもつ。対象に、意味あいや価値を見いだす。内発の動機づけである。
難しいことがらをなす。易しくはないことをなすさいには、多重の動機づけで支えられていることがいる。一つの動機づけだけだと支えが弱い。ざせつがおきやすい。
外発だけではなくて、内発の動機づけもあれば、多重の支えになる。何か思わぬ負のことがおきたとしても、耐えやすい。ふんばりやすい。ねばりをきかせやすいのである。
自分たちの政党に利益になるのならば、それに近づく。自分たちの政党に不利益になるものであれば、そこから遠ざかる。維新の会は、そうした行動をとっていそうだ。万博にたいするふるまいにそれが見てとれる。
多重の支えによっていなくて、外発の動機づけだけにしかよっていない。万博にたいして、維新の会は支えが弱い。自分たちの政党に利益にならず、不利益になるのがわかったら、そこから遠ざかる。不利益になることは、自分たちの政党では引き受けない。ほかの何かに不利益を押しつけて行く。
利益になるからそれをやるといったことだと、それをさいごまでやり抜く保証にならない。たとえ負のことがらがとちゅうで起きたとしても、さいごまでねばり強くやり抜くためには、そうとうに強い動機づけをもっていなければならない。それなりより以上の動機づけをもつことがいる。一つだけではなくて、多重の支えがいる。
票とお金で動くことが多いのが政治家だ。維新の会にかぎらず、政治家は一般にその二つで動くことが少なくない。票になるのならそれをやるとか、お金になるのならそれをやるといったことで政治家はしばしば動く。
国や地域がやるもよおしは、政治における知の象徴(credenda)や感情の象徴(miranda)になる。もよおしを通して、日本または(地域であればたとえば)大阪のすごさをうったえかける。日本や大阪のよさを人々の内面にすりこむ。そういう目的のためにもよおしが行なわれることが多い。万博もそういったものの一つだろう。
あらためて見ると、だから何なのだ(so what?)といったところがあるのが万博だ。そのことに熱を入れてやるのだとしても、だからいったい何なのだといったところがあり、冷めることができる。冷めたふうにしてみると、万博は虚無である。ほかの色々な大事なことをさし置いて、そこまで力を入れたり熱を入れたりしてまでやるほどのものではないのが万博だと言えそうだ。