さるであると言ったことと、批判者(主体)の排除―批判者の包摂や承認がいる

 憲法を改正して行く。思考が停止したままで、その動きをおし進める。そのことを、(動物の)さるであるのだと言ったのが、野党の立憲民主党の政治家だ。

 さるであるのだと野党の政治家が言ったのは、適していないことだったのだろうか。すごい悪いことを言ったのだろうか。

 なんで、さるであると言った野党の政治家が、悪いことを言ったのだとされているのかといえば、思想の傾向(ideology)を批判したからだろう。

 憲法の改正の動きがどんどんおし進められているのは、思想の傾向によるものだ。その思想の傾向を批判したのが野党の政治家であり、そのなかで、さるであると言ったのである。

 さるであると言ったことが悪いのであるよりも、憲法の改正をどんどんおし進めていっている思想の傾向のほうがより悪い。そう見なしてみたい。

 何が批判されるべきなのかといえば、さるであると言った野党の政治家であるよりも、憲法の改正をどんどんおし進めていっている思想の傾向のほうがより批判されるべきだ。その思想の傾向こそが、危ないものなのである。

 主体(行動者)に当たるのが、さるであると言った野党の政治家だ。さるであると言ったのは、主体がとった手段であり、その手段は適していないところがあったかもしれない。目的はよいけど、合理性に欠ける手段をとってしまったり、よくない手段をとってしまったりすることがある。現実論としては、とれる手段はかぎられていて、制約の条件がつきまとう。

 手段が必ずしも良くなかったからといって、主体である野党の政治家を排除してしまうのはまずい。さるであると言った野党の政治家は、批判者であり、批判者を排除してしまうと、よくない思想の傾向が野放しになってしまう。

 たとえ手段が適していないものであったのだとしても、批判者を排除するのではなくて、包摂して行く。承認して行く。批判者は、ぜい弱性(vulnerability)を持っているから、排除されてしまいやすい。

 ぜい弱性を持っているのが、さるであると言った野党の政治家だから、さるであると言ったことについて、右派や保守派からきびしい目で見られることになった。いてほしくなくて、じゃまで、うとましいのが批判者だ。

 批判者がしたほんの少しの悪いことが、うんと拡大されてとらえられることになり、すごい悪いことをしたかのようにされる。とらえようによっては負の行動にあたることを行動者である主体がなしたことにたいして、それに見あうより以上の大きな負の反応がおこされる。

 日本には、愛国とか、親米とか、改憲とかの思想の傾向がある。日本の国体(nationhood)をよしとするものだ。それによって右傾化が進んでいっている。右傾化が進んでいっているのが、止まらなくなっている。歯止めがかかっていない。全体が右に右にとずれていっていて、抑制と均衡(checks and balances)がかかっていない。

 右傾化に歯止めをかけるためには、思想の傾向への批判が必要だ。すごいうそがまん延化してしまっているのが日本の政治だけど、それは思想の傾向への批判が欠けているためである。排除がすごく強くて、批判者への排除がすごいおきているのだ。

 政治でうそが言われるのは、すごい危ないことであり、日本の国の政治ではそれがおきている。政治で、うそが許されてしまっている。

 比べてみると、政治において、うそを言うことと、さるであると言うのは、うそのほうが悪さが重くて、さるであると言うのは悪さが軽い。うそを言うのが甘く許されてしまっているのに、さるであると言うのがすごい悪いことであるかのようにされている。

 目の前に、さるであると言ったことの悪さがあるのだとしても、それは巨悪とまでは言えそうにない。さるであると言ったことの悪さがあるのだとしても、そのうしろに巨悪があって、そのうしろにある悪を見ることがいる。うしろにある大きな不正なのが、国の思想の傾向であり、政治の右傾化であり、政治でうそが色々に言われていて、うそが甘く許されてしまっていることだ。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『日本語の二十一世紀のために』丸谷才一 山崎正和 『うその倫理学』亀山純生(すみお) 『右傾化する日本政治』中野晃一 『憲法という希望』木村草太(そうた) 『日本の刑罰は重いか軽いか』王雲海(おううんかい) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『国体論 菊と星条旗白井聡(さとし)