党の中で、分派するのはよくないのか―分けるか、分けないか(分けられるか、分けられないか)

 分派はよくない。共産党はそうしている。

 日本共産党の中では、分派は悪いとされているけど、それはふさわしいやり方なのだろうか。

 あるものを、分けられるか、分けられないかがある。人だったら、それ以上に分けられないのが個人(individual)だ。

 個人でも、それを分けることができるのだとするのが分人(dividual)だ。分人主義が言われているのがある。作家の平野啓一郎氏によって言われている。

 党は、中を分けることができるのがあるから、分人のようなものだ。分人のようではあるけど、分けたらだめなのだとしているのが共産党だ。

 分人でいえば、分党とできるのがあるかもしれない。分けることができるのが党だし、どういうものと相対するのかによって、ちがうものだと言えるのが党だ。

 人だったら、こういうときにはこの人はこういう顔を持っているけど、ちがうときにはまたちがう顔があることがある。きびしさとやさしさのような、差(gap)をもっている人は、魅力をもつことがある。

 党では、こういうときにはこういう顔を持っているが、ちがうときにはまたちがう顔をもつ。いろいろな顔をもつ。一つの顔だけなのではない。多くの顔をもつのが、一つの党だ。

 分人主義のように、分党主義がある。そう見なせるのがあるとすると、さまざまな顔を党がもつことになるから、そのうちの一つの顔だけでは総合しづらい。いくつもの斑(はん)を体に持っている動物のヒョウのようになる。

 それ以上には分けることができない個人がよいとか、個党がよいとかとできるのがあるし、そうではなくて、分けることができる分人がよいとか、分党がよいとかともできる。個のあり方がよいのか分のあり方がよいのかは、どちらがよいかはいちがいに決めつけられそうにない。

 それ以上には分けることができない個のあり方だと、分けるのはだめだとなり、固いこう派なあり方になり、こうちょく化や実体化してしまうところがあるかもしれない。

 全体と部分では、全体を見ると部分が見えなくなる。部分を見ると全体が見えなくなる。そうした循環の構造がある。全体は非真実なのがあり、全体としての個人や党は、非真実だ。

 体系(system)としての個や党は、内に矛盾をかかえこむ。関係し合うことがらが集まったものなのが体系だ。体系の内と外とのあいだの線は、きっちりと引ける実線ではなくて、あいだにすき間がある破線や点線だ。内と外とのあいだの線を引くことの気ままさや恣意(しい)性がある。

 体系の内と外とのあいだには線が引かれているが、内と外とのあいだは交通し合う。体でいえば、外にある何かのものを食べたり飲んだりして、体の内にとりこむ。体の外から、体の内への交通だ。

 まったく無矛盾ではありえないのが、体系としてはあるから、協和しないところがあり、不協和になるところをもつ。気ままさや恣意性をもつのが体系であり、体系の内(と外)をじゅんすいには定めづらい。

 参照文献 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『日本の難点』宮台真司(みやだいしんじ) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『社会学になにができるか』奥村隆編