処理水と、規範(きはん)―処理水と、それについての言説は、どうであるべきか

 原発から、汚染水が出る。それを処理した水である処理水を、海に流す。それをやっているのが日本だ。海に流していることには、反対の声も根づよい。

 処理水は、このまま海に流しつづけるべきなのだろうか。それとも海に流すのを中止するべきなのだろうか。

 どうするべきなのかは、規範(きはん)だ。

 規範については、原子力発電所から出た処理水についてだけではなくて、それについての言説についてのものもある。

 言説についての規範としては、反証の可能性がある。うそであることを証明できる可能性をもっていなければならない。

 内容としては、処理水が安全だとする言説と、危険だとする言説がある。その二つの言説は内容がちがっているけど、どちらであったとしても、規範としては反証の可能性をもっていなければならない。反証主義からはそうすることがなりたつ。

 はたして、処理水は安全なのか、それとも危険なものなのか。その二つのどちらとも言われているのがあるけど、どちらが正しいのかは定かだとは言えそうにない。どちらが本当またはまことのことなのかははっきりとしづらい。うそであるのはどちらなのかが定かではないのがある。

 たとえ処理水を安全だとしようが、それとも危険だとしようが、どちらであっても、試験(tentative)の言説だろう。あくまでも試験としての言説だから、まちがいなく本当だとか、まちがいなくまことだとは言い切りづらい。

 いろいろに試験としての言説が言われているのがあり、それらの言説は、反証の可能性をもつ。規範としてはそれを持っていないとならないのがあり、たとえ処理水は安全だとしていたとしても、それがうそであることを証明できる可能性をもつことがいる。たとえ危険だとしていたとしても、それがうそであることを証明できる可能性をもつことが必要だ。

 きちんと規範をふむことがないと、規範によらないことになってしまう。どこまでも言説を(自己)正当化や(自己)合理化することになってしまう。信念や直観がどんどん補強されていってしまう。信念や直観をとちゅうで検証することがなされない。根拠をにぎり直すことがとちゅうでなされない。

 うそであることは絶対になくて、まちがいなく本当またはまことの内容なのだとしてしまうと、その言説は教義や教条(dogma)になってしまう。行きすぎた合理主義だ。

 行きすぎた合理主義におちいらないようにするために、反証の可能性をもつことがいる。規範としてそれを持つことがいり、反証主義によるのがのぞましい。あまりにも合理によりすぎるとかえって非合理になってしまう。あまりにも論理によりすぎるとかえって非論理になってしまう。そういったことがなくはない。

 東洋の陰陽の思想では、陰がきわまると陽に転じるとされる。その逆もなりたつ。合理と非合理では、合理すぎてそれが非合理に転じるといったような逆説になってしまうことがあるから、それには気をつけておきたい。他からの批判を受けつけない閉じた合理主義ではなくて、他からの批判にさらされるのをよしとする開かれた合理主義であるのがよい。

 参照文献 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫(かおる) 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『新版 ダメな議論』飯田泰之(いいだやすゆき) 『哲学の味わい方』竹田青嗣(せいじ) 西研(にしけん)