あくまでも安全なものなのが処理水だ。海に流しても安全なのだとしているのが日本の国だ。
そこでサーフィンをしても大丈夫なことをうったえたのが、与党である自由民主党の元環境相だ。サーフィンの教室をひらいて、処理水の安全性をうったえた形だ。
はたして、処理水は海に流しても安全なものなのだろうか。危険性はないのだろうか。
どういう見解(view)をもったらよいのかが問われているのが処理水の海洋への放出だ。
日本の国と同じ見解をもつのだとすれば、処理水は安全なのだとなる。
処理水は危険なものなのだから海に流すべきではない。そうした見解を持つのであれば、日本の国とはちがう見解をもつことを示す。
まちがった情報によって誤解がおきるのをおそれているのが日本の国だ。誤解がおきると、日本の国とはちがう見解をもつことになる。
交通論からすると、誤解がおきるのは、言葉の反交通だ。交通がさえぎられるのが反交通であり、そうした交通の様態(ようたい、mode)がおきることになる。
どういったことを言うのにしても、それが受け手に受けとられるさいに、誤解がおきてしまう。まったく誤解をおこさずに受け手に受けとってもらうことはできづらい。受け手にものを受けとってもらうさいに、交通において、言葉の反交通がおきてしまう。
無意識においておきるものなのが誤解だ。それを意識してやれば、うたがうことになる。誤解されるだけではなくて、うたがわれているのが日本の国だ。(誤解によるのと共に)うたがうことによっても、日本の国とはちがう見解をもつことになる。
どうして日本の国がうたがわれているのかといえば、日本の国がもつ意図(intention)があやしまれているせいだ。意図とはちがう伝達の情報(message)を言っているのにちがいない。意図と、伝達の情報がずれているのだ。そのように疑われているのが日本の国だ。
じっさいに、どういう意図を日本の国がもっているのかは、はっきりとはしづらい。処理水のことについて、日本の国民をだましたりあざむいたりしようとする意図をもっているのかもしれないし、もっていないのかもしれない。
安全なものなのが処理水なのだから、海に流しても良いのだとしているのが日本の国だ。そういう伝達の情報(M)を言っているけど、それが日本の国の意図(I)と合っているのか、それともずれているのかが定かではない。
ほんとうは危険なものなのにもかかわらず、それを安全なものに見せかける意図(I)を日本の国がもっているのだと仮定できる。そう仮定できるとして、処理水は安全なのだとする伝達の情報(M)を日本の国が言うのは、意図と伝達の情報がずれることになる。
日本の国がもつ意図と、(言っていることである)伝達の情報がずれているのだとすれば、日本の国をうたがう。信じない。日本の国とはちがう見解を持つのが正しくなる。
日本の国と同じ見解をもつのはまちがいなのかといえば、そうとは言い切れそうにない。かりに、日本の国が国民をだましたりあざむいたりする意図(I)を持っていなくて、科学によることを伝達の情報(M)として言っているのだとすれば、とくに日本の国をうたがわなくてよい。伝達の情報をそのまま受けとる見解のもち方でかまわない。
うたがわれたり、批判されたりされざるをえないのが日本の国だ。これまでの悪い政治からすれば疑われたり批判を受けたりせざるをえないのはあるが、その上で、処理水のことでは、どういう見解を持つのがふさわしいのかがある。
こういう見解を持つのがぜったいに正しいことなのだ。そんなふうには必ずしも言い切れなくて、日本の国の意図(I)と伝達の情報(M)とが、それぞれにどういったものなのかを色々に探ることがなりたつ。
どういう見解(V)を持つのかは、それぞれの人の自由だ。色々な見解のもち方が可能だ。日本の国をうたがうのもできるし、信じることもできる。信じるとはいっても、(無条件や全面としてではなくて)条件つきであったり、留保(りゅうほ)をつけたりした上でのものもある。四割は疑いながらも、六割は信じるといった複合のものもある。
参照文献 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『ホモ・メンティエンス(虚言人)』外山滋比古(とやましげひこ) 『疑う力 ビジネスに生かす「IMV 分析」』西成活裕(にしなりかつひろ) 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき)