処理水を、海に流すべきか、それを止めるべきか―海への放出をとちゅうで止めることはありえるのか

 原発の処理水を、海に流す。それを日本はやっているが、それをやめよと言われている。いますぐに中止せよとの声があげられている。

 処理水を海に流すのを日本はやりはじめたけど、それをとちゅうでやめることはありえるのだろうか。海洋への放出をとちゅうで中止することは、確率としてどれくらいありえるのだろうか。

 とちゅうになって、原子力発電所から出た処理水を海洋に放出することを日本がやめることは、あまりありえそうにない。確率としてはそれは低そうだ。

 いったんやりはじめたことを、とちゅうでやめるとなると、またちがった問題がおきてしまう。

 処理水そのものが安全か危険かであるよりも、むしろ日本や、電力の会社の東京電力の面子(めんつ)がつぶれてしまう。めんつが丸つぶれになってしまうから、よほどのことがないかぎりは、とちゅうで処理水の海洋への放出をやめることはなさそうだ。

 汚れているのは何も処理水(汚染水)だけにかぎったことではなくて、日本の国や、東電もまた、汚名をもつ。

 汚名をもっているのが日本の国や東電だけど、それとともに、自分たちがやっていることを正当化しようとする。合理化しようとする。

 わざわざ自分たちがやっていることを不当なことだとしたり非合理なことだとしたりはしないのが日本の国や東電だ。できるかぎりの正当化や合理化をして行く。

 とちゅうで処理水の海洋への放出をやめるのは、日本の国や東電のめんつをつぶすことだ。めんつが立たなくなってしまうから、それはできるかぎり避けたい。

 処理水を海洋に放出することへの動機づけ(incentive)がとても高いのが日本の国や東電だ。海洋への放出をとちゅうでやめることへの動機づけはかなり低い。やりたがらない。

 正しい意思の決定(decision-making)で、正しい行動をしている。日本の国や東電は、そういうふうに見せたいのがあるから、その正しさを否定することになるようなことは自分たちからわざわざやりそうにはない。

 いちおう、自分たちがやっていることに正当性(rightness)があるのだとしているのが、日本の国や東電だ。できることならば、その正当性を、ほかの人たちにわかってもらいたい。うなずいてもらいたい。これは正統性(legitimacy)だ。日本の国や東電が権威を持つことであり、ほかの人たちはそれにしたがう。

 かならずしも十分で完ぺきな正当性があるとは言い切れそうにはないのが、処理水の海洋への放出だ。正当性が問われるところがある。また、正当性を問いかけなければならないところがある。

 人々を従わせることにうまく成功していなくて、やや失敗しているところがあるのが、処理水の海洋への放出だ。ほかの国である、中国を、日本に従わせるのはできないことだけど、日本の国の中においても、日本の国や東電のやることに従わないで、批判の声をあげる人たちが少なからずいる。

 みんなが日本の国や東電のやることに従うのであれば、そこに正統性がかなりあることを示す。そうではなくて、従わない人たちが少なからずいて、日本の国や東電に協調しない、非協調な人たちがそれなりにいるのだとすれば、そこには正統性が十分にあるとは言えそうにない。

 自分たちが権威であり、正義である。できることならば、そういうふうにしたいのが日本の国だ。日本の権力者がいて、その権力者が言うことややることが正義なのだとしたいのがあるから、処理水の海洋への放出についても、それが正義なのだとしたい。

 かりに、ひゃっぽほどゆずって、日本の国のやることが正義なのだとしても、それとは別に実在もまたある。実在においては、さまざまな人たちによるさまざまな声がある。また、日本の国だけが正義なのではなくて、正義がいくつもあって、日本の国のやることを批判する立ち場の正義もまたある。

 正義は一つだけに限らないのがあるから、色々な立ち場がある中で、できるだけ中立な立ち場に立つこともいり、自由主義(liberalism)によることがいる。国の立ち場(国による正義)だけではなくて、そのほかの色々な立ち場もくみ入れなければならない。

 参照文献 『徹底図解 社会心理学 歴史に残る心理学実験から現代の学際的研究まで』山岸俊男監修 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし) 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫法哲学入門』長尾龍一 『日本の難点』宮台真司(みやだいしんじ) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『権威と権力 いうことをきかせる原理・きく原理』なだいなだ 『構築主義とは何か』上野千鶴子