処理水と、中国の反対―(海洋への放出に反対している)中国の言いぶんは正しいのか

 中国は、日本のやることに反対した。日本が原発の処理水を海に流すことに反対していて、日本の海産物を中国に輸入しないことにした。

 日本の海産物を中国が禁輸するのは、想定外だった。日本の政治家はそう言う。

 原発の処理水を海に流すことに、中国が反対しているのをどのように見なせるだろうか。

 原子力発電所から出た処理水を、海に流すことに反対している人は少なくない。国としては中国が反対をしている。

 処理水の海洋への放出に反対しているのが中国だけど、その中国が言っていることは正しいことなのだろうか。中国の見解(view)は正しいものなのだろうか。中国がもつ認識の枠組み(framework)にまずいところはないのだろうか。そう問いかけてみたい。

 国の中で上から情報を統制しているのが中国だ。情報が民主化されていないのが中国なので、中国が言っていることをそのまま丸ごとうのみにはできづらい。

 たとえ中国が情報の統制をやっているのだとしても、日本だって同じようなことをやっている。日本もまた、処理水の海洋への放出において、情報の統制のようなことをやっているのは確かにあるかもしれない。戦前の大本営発表のような報道になっているところがある。

 日本のことはさしあたって置いておけるとして、中国を見てみると、中国の言っていることには少なからぬ政治性がある。じゅんすいに科学によることを言っているわけではない。情報の政治(infopolitics)になっているのだ。

 情報に政治性や作為性や意図性があるのが、中国の言っていることだ。それはなにも中国に限ったことだとは言えそうにない。日本もまたそうなのである。

 いくら日本や、電力会社の東京電力が、科学にもとづいたことを言っているのだとしても、多かれ少なかれ中国と同じようなことになってしまう。中国は科学によっていなくて、日本は科学によっているのだとはいちがいには言い切りづらい。

 非科学なのが中国で、日本は科学によっているのだとは必ずしも言えないところがある。中国は今回の処理水のことでは政治性が大きすぎるのがありそうだけど、日本も中国ほどではないにせよ政治性がある。中国よりは小さいけど、日本にも政治性があるのだ。

 加上(かじょう)の作用があって、これは原型(presentation)にたいして何かをつけ足すことだ。科学によっているだけであれば、原型そのものだ。原型そのもののあり方にできるのかといえば、そうはできづらい。どうしても何かをつけ足してしまう。そこに政治性がおきることになる。

 原型そのものを示すのはむずかしいのがあって、たんに原型だけを示すのはできづらい。ついつい何かをつけ足してしまう。原型に、何かをつけ足した形で、何かを言う。処理水のことでは、そうした形で説明が行なわれている。

 国どうしを比べてみると、処理水の海洋への放出に反対している中国は、政治性が大きいことを言っているようにうつる。そううつるのがあって、それは原型に色々なものをたくさんつけ足しているのを示す。

 中国は原型に色々といっぱいつけ足しているのがあるけど、日本はそこまではつけ足していない。そうかといって、原型そのものを言っているのではないのが日本だ。ていどのちがいにすぎないのがあって、原型に何かをつけ足している点では、中国と日本は同じだ。

 科学にもとづいて処理水を海洋に放出しているのはあるのにしても、それと共に、情報の政治が行なわれている。情報の政治が行なわれているのはいなめない。処理水を海洋に放出するのをよしとしてもらうように、人々を動員(mobilize)して行く。これは上からのものであり、知と権力だ。じゅんすいな知ではなくて、知識の権力性である。

 上からの動員とは逆に、下からの動員もまたおこっている。処理水を海洋に放出させないようにする(海洋への放出を止める)ために、人々を動員して行く。方向性がちがった、情報の政治のせめぎ合いがなされている。

 参照文献 『情報政治学講義』高瀬淳一 『ホモ・メンティエンス(虚言人)』外山滋比古(とやましげひこ) 『うたがいの神様』千原ジュニア 『科学との正しい付き合い方 疑うことからはじめよう』内田麻理香 『情報汚染の時代』高田明典(あきのり) 『「科学的思考」のレッスン 学校で教えてくれないサイエンス』戸田山和久 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫(かおる) 『細野真宏の数学嫌いでも「数学的思考力」が飛躍的に身に付く本!』細野真宏 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『構築主義とは何か』上野千鶴子