処理水と、交通―いろいろな交通の様態(ようたい)と、原子力発電所の処理水

 害がある水が出る。それを処理したものなのが、処理水だ。

 原子力発電所から出た害がある水を、そのままではなくて、処理をした上で、日本は海へ流そうとしている。日本の国の内や、ほかの国から批判の声がおきている。処理水についてを交通論の点から見てみるとどういったことがわかるだろうか。

 名づけられたものなのが処理水だ。ものを名づけるのは、交通論からすると逆方向の単交通だ。名づけられたものからすればそうである。逆方向の単交通は、受動のものだ。自分から名のるのではなくて、名前を与えられる。単交通は、交通の様態(mode)では一方向のものだ。

 水から害をとり除いたものなのが処理水だ。害があるものから、害をとり除くのは反交通だ。害が無いものに変える。害をとり除く。人が害を取りこんでしまわないようにして、外に捨てさる。

 性質として色々なものが中に溶けこむ。水がもつ性質としてそれがある。これは逆方向の単交通だろう。水が自分の意思によってものを取りこむのであるよりは、色々なものが水の中に入りこむ。受け身である。

 時間をさかのぼってみると、処理水はもともとは害があった。いまとかつてのあいだのいまかつて間(かん)の交通からすると、処理水は、元は有害水だ。かつては有害水だったから、元有害水である。処理されたあとであれば、現無害水であるかもしれない。まだ害が残っているのであれば、元有害水であり、現有害水である。

 もとは害がある水を、害が無いものにできれば、それを人が飲んでも大丈夫だ。はじめは害がある水を、安全な水に変えるのは、目ざすあり方へいたらせることだから、単交通だ。目標となるあり方にいたらせる。

 日本だけではなくて、ほかの国にも害がおよびかねない。日本が処理水を海に流すと、ほかの国にも問題がおきかねないから、日本がほかの国へ害を与える単交通がおきることになる。

 ほかの国にとってみれば、日本から害を受けたくない。そうはいっても、海は地球の全体でつながっているから、日本からやってくる害を防ぐことはできない。海がつながりあっているから、日本から来る害がそのまま流れてきてしまう。双方向の双交通になる。もしも害を防げるのであれば、反交通がなりたつ。よくないものが内に入りこむのを防ぐのは反交通だ。海においては有害なものの反交通は成り立ちづらい。

 安全なものなのだとされているのが処理水だ。日本の国や電力会社がうそをついていなければ、処理水は安全なものだろう。ほんとうは危険なものを、安全なのだとしてうそをつく。ほんとうではないことを日本の国や電力会社が言っているのであれば、うそをついていることになるから、言葉の反交通だ。

 生きるために、食べたり飲んだりする。人の体は、交通の装置だ。交通の装置なのが体だから、水を取りこんだり、魚を食べたりする。水を飲んだり魚を食べたりするさいに、害があるものを体の中に取りこんでしまう。安全なものなのであればだいじょうぶだけど、もしも処理水が危険なものなのであれば、体が交通の装置であるだけに体によくないものを取りこむことになってしまう。

 参照文献 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『すぐに役立つ水の生活学』松下和弘 『うその倫理学』亀山純生(すみお)