日本にいる外国人と、その支援者―助けがいる人と、外の社会との交通

 日本にいる外国人を手助けする。手助けする支援者が、わざわいした。外国人が、施設で死ぬことになるもとになった。支援者を悪く言うことが、日本の国の議会(国会)ではされていた。

 施設に入れられている外国人を手助けするのは、よくないことなのだろうか。悪く言われるようなことをやっているのだろうか。

 日本にいる外国人は、論の力が必ずしも十分ではないことがある。論の力とは、自分が思っていることを言う力だ。

 日本人と同じくらいの論の力を持っているとはかぎらないのが外国人だから、交通がなりたちづらい。交通のあり方である様態(ようたい mode)では、交通がなりたたないものである反交通になりやすい。日本人と同じようには、おたがいの交通がなりたつ双交通がなりたちづらいのである。

 交通のあいだをなかだちする役をになうのが、支援者だろう。外国人は、日本の中にいる中で、反交通になりやすいから、それを双交通にして交通を通じさせる助けをするのが支援する人だろう。

 じかに自分で交通を通じさせられるのであれば、当事者がもっとも重んじられるべきだ。当事者の主権(personal autonomy)が重んじられることがいるけど、自分でじかに交通を通じさせづらいのであれば、色々な助けがあることがいる。助けに当たるのが支援者であり、表象(representation)だ。

 表象である支援者は、当事者そのもの(presentation)ではないけど、当事者の思いをじゅうぶんに引き受けているのであれば、ほぼ当事者にひとしい。表象をだいじにすることがいることになる。

 日本語をまだしっかりと身につけていなくて、交通が通じづらい中では、従属の階層(class)に置かれやすい。被収だつ者になりやすくなる。劣や下の階層に置かれると、交通がまったくできなくなることがある。自分でじかに語れなくなる。だまっているのや、ちんもくを強いられてしまう。

 下の階層に置かれると、語れなくなってしまうことがあるから、代わりに語る人がいることがある。交通を通じさせる役をになう表象がいる。

 代わりに交通を通じさせる表象を否定してしまうと、交通がまったくなくなってしまう。完全な反交通のようになってしまい、孤立化してしまい、出口がない中に閉じこめられてしまう。

 日本の国と、じかの当事者だけだったら、日本はまっ暗だ。まっ暗なところに、少しだけ光がある。その光に当たるのが、当事者を助ける支援者の人たちだろう。

 支援者がまったくいなかったとしたら、光がまったくささず、まっ暗なものとしての日本の国しかなくなってしまう。光は、友であり、困っているときに自分に手をさし伸べてくれる人だ(A friend in need is a friend indeed.)。くらやみ(日本の国)の中の光だ。

 日本の外から、外国人がやって来るのをこばむ。反交通のあり方になっているのが日本であり、それとともに、日本にいる外国人の思いも、反交通にしていて、こばんでいる。その二つの反交通があるから、それを改めるようにして行く。

 人の反交通と思いの反交通がある中で、日本にいる外国人の思いを受けとめて行く。思いを引き受ける支援者は、表象なのがあり、その表象を否定しないようにして行く。表象を許容するようにして、当事者に助けの手がどんどんさし伸べられるようになればよい。当事者への、さっしと思いやり(sympathy や empathy)が、どんどん高まって行くようにしたいのがある。

 参照文献 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『当事者主権』中西正司(しょうじ) 上野千鶴子 『論力の時代 言葉の魅力の社会学』宮原浩二郎(みやはらこうじろう) 『社会的排除 参加の欠如・不確かな帰属』岩田正