性の加害と、集団の汚れ度(汚れの度合い)―集団のきれいさ(清さ)と汚さ

 二つの極が集団にはある。

 その二つの極から、日本の芸能の会社を見てみられるとすると、どういったことが見えてくるだろうか。

 一つの極は、集団の中に汚れがどんどんたまって行くものだ。もう一つの極は、集団の中にたまった汚れをきれいに掃除するものである。

 ふつうの日常においては、集団の中に汚れがどんどんたまって行く。汚れをどこかの時点で外に吐き出さないとならない。汚れをきれいに掃除する極がいるのがあり、それに当たるのが例えばお祭り(carnival)のもよおしなどだ。お祭りは非日常だ。ケが日常で、ハレが非日常である。

 文学ではカーニヴァル理論がある。お祭りによって、混沌(こんとん)を呼びこむ。日常の秩序によってたまった汚れをきれいにする。あり方が新しく更新される。

 カーニヴァル理論では、殺される王の主題がある。王ごろしだ。王の戴冠(たいかん)と奪冠(だっかん)である。冬の王をたおす。それによって冬が終わり、よろこばしい夏(春)がやって来るのである。

 性の加害をなした日本の芸能の会社では、これまではずっと汚れがたまりつづける極だった。その極がずっとつづいていたのがあり、集団の中にどんどん汚れがたまりつづけていったのである。

 ごみ屋敷であるかのように、すごい汚れがたまってしまっているのが、性の加害をなした日本の芸能の会社だ。ようやく、汚れをきれいにそうじする極がおき始めたのである。

 性の被害を受けたのが被害者だけど、被害者は汚れのそうじの役をになう。もっと早くに被害者を認知して、救う手だてをやっていれば、汚れをきれいにすることができた。それをやってこなかったのが、性の加害をなした日本の芸能の会社だ。

 そんなに汚れていないかのように見せかけていたのが、性の加害をなした日本の芸能の会社である。きれいであるかのように見せかけていた。きれいであるとされていたのがあり、それがそれなりに通用していたのである。

 ちょっと見ただけであれば、きれいであるかのようだけど、よくよくほり下げて見てみると、すごい汚い。すごい汚れをためこんでいたのがあり、これまでにろくに掃除がされてこなかったのである。

 放っておくとだんだん汚れが中にたまりつづけてしまう。ちょくちょく掃除をやらないとならない。定期的にそうじをやらないと、どんどん汚れが中にたまりつづけていってしまう。

 そうじをやらないで、きれいにしない。汚いままでよい。どんどん汚くなりつづけるのでよい。集団の中で、そういうあり方がよしとされた。きれいなのが良いことなのではなくて、その逆に汚いことが良いことなのだといったことになった。逆説だ。

 汚さへの批判として、きれいにするべきではないのかとか、掃除をやるべきではないのかといったことを投げかけられる。汚さを良しとするのにたいして、きれいであるのや掃除をやることの値うちを持ち出すことができる。

 たとえ汚くても、かくしてしまえば目だたない。ちょっと見ただけでは、汚さが人の目にはふれない。汚さをフタのおおい(cover)でおおってしまう。フタのおおいがされつづけていれば、汚さが見えづらい。

 フタのおおいは、本質として汚れをきれいにそうじすることにはならないのが欠点だ。フタを引っぺがす。フタをはずしてしまえば、汚さがあらわになる。汚れの発見(discover)だ。

 フタを引きはがして、ここに汚さがあるぞとか、ここが汚いぞとさし示すことがいる。それをやらないと、汚れがどんどんたまりつづけて行って、ごみ屋敷みたいになってしまう。(きれいに掃除をするのではなくて)汚れをためることが良いことなのだといったあり方がとられつづけるのはまずい。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『こうして組織は腐敗する 日本一やさしいガバナンス入門書』中島隆信 『忠臣藏とは何か』丸谷才一 『法律より怖い「会社の掟」 不祥事が続く五つの理由』稲垣重雄