法の重要性を考える:うら金と政治の問題

 再び起きてしまうのを防ぐ。そのために、法の決まりを作って行く。政治のうら金のことでは、それがいるのだとされているのがある。

 再発をふせぐために、法の決まりを作ることが、うら金のことにおいてもっともいることなのだろうか。制度を作りさえすれば、再びうら金を作られることが起きなくなるのだろうか。

 うら金を作っていたのが与党である自由民主党の政治家たちだ。野党は自民党のうら金の政治家たちを批判するのではなくて、法の決まりや制度を作って行くことをしなければならない。自民党を批判ばかりしていないで、野党はかんじんなことをやるべきだ。そう言われているのがある。

 何が欠けているのかを見てみたい。うら金のことにおいて、それを作らせないようにする法の決まりや制度が欠けているのだとは必ずしもいえそうにない。

 法の決まりや制度が欠けているから、それを新しく作って行く。それで再発を防止して行く。これから新しく法の決まりや制度を作って行くことがいるのであるよりも、その前のところのものが欠けてしまっているのが日本の政治だろう。

 いちおうあると言えばあるものなのが、法の決まりや制度だ。それらがまったくないのではなくて、いちおうすでにあると言えばある。それに比べて、何がいちじるしく欠けているのかと言えば、もっと前のものだ。基礎や土台みたいなものが日本の政治では欠けている。

 基礎や土台に当たるところのものとして、法治がある。いまの日本の政治は、法治ではなくて人治になってしまっている。法の支配(rule of law)ではなくて。人の支配だ。

 周辺と核心の二つにふ分けしてみる。二つにふ分けしてみたさいに、うら金のことでは、法の決まりや制度の不備が核心に当たるのだとはできそうにない。核心に当たるのは何かといえば、法の軽視だ。法を重んじていない。

 家を建てるさいに、なんじゃくな地盤のところに建ててもきちんとした家は建たない。しっかりとした家を建てるためには、きちんと安定した地盤のところに、しっかりとした基礎をつくる。そのうえで家を建てて行く。

 政治のうら金のことでは、いくら再発を防ぐための法の決まりや制度を作るのだとしても、すごいなんじゃくな地盤のところに家を建てるようなことになってしまう。

 ひどく法を軽んじていて法治ではなくなっているところに新しく法の決まりや制度を作ったとしても、必ずしも意味があるものになるとはいえそうにない。せっかく新しく建てた家が、すぐに倒れてしまうようなことになる。

 どういうことを改めるべきなのかと言えば、法治ではなくなっているところだ。法治ではなくて人治になっているのを改めて行く。強い者に有利にはたらくような帝国主義(専制主義)になっているのがいまの日本の国の政治だから、専制主義を改めて行く。

 具体のものなのが法の決まりや制度だけど、それよりも前のところである抽象のところを見て行く。具体論ではなくて抽象論によってみると、日本の政治では法が軽んじられている。法を重んじていない。それがあるから、法を重んじるようにすることからはじめて行かなければならない。そこから改めて行くことがいる。

 中立な立ち場から判断する思想なのが自由主義(liberalism)だ。中立ではなくて、強い者に有利になっているのが日本の国の政治であり、専制主義のあり方だ。うら金が作られていたのは、強い者である自民党に有利にはたらくものである。専制主義のあり方があらわれているのである。

 脱税をしているのが自民党の政治家たちであり、うら金を作っていた。脱税の脱のところがあるけど、それになぞらえれば、政治が脱法になっている。無法や超法になっているのが日本の国の政治であり、法にもとづいていない。いくら再発をふせぐために新しく法の決まりや制度を作るのだとしても、脱法や無法や超法になっているのであれば意味がない。

 いそいで新しい再発の防止のための法の決まりや制度を作るのであるよりも、いまいちど法を重んじるようにすることからはじめて行く。初歩のところからはじめて行く。国の政治においての初歩のところができていないのがいまの日本であり、そこから改めて行くことがいりそうだ。

 具体論であるよりも抽象論で見てみると、抽象のところができていないのがあり、まずは法を重んじるようにするところからはじめて行くことがいるのが日本の政治だろう。

 たとえ自民党であっても、そのほかの政党であっても、どこの政党であったとしてもそもそもこういうことはよくないのだとして行く。どこの政党であったとしても、どの政治家であったとしても、そもそもこの行ないは悪いといったふうにするのでないと、自民党だけが甘く許される、甘えの構造を改めることができづらい。甘えの構造が保たれたままだと、法が軽んじられつづけてしまう。

 参照文献 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫現代思想を読む事典』今村仁司編 『憲法という希望』木村草太(そうた) 『法律より怖い「会社の掟」 不祥事が続く五つの理由』稲垣重雄 『橋下徹の問題解決の授業 大炎上知事編』橋下徹 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『人を動かす質問力』谷原誠 『法哲学入門』長尾龍一構築主義とは何か』上野千鶴子

テレビ番組の適正性:政治家への番組の出演の依頼をめぐる議論

 左派の政党の政治家が、テレビ番組に出ることをこばむ。番組に出てほしいと言われたのをこばんだことへ、批判が投げかけられている。

 たとえどのような番組であったとしても、出てほしいと言われたら、政治家は必ずその番組に出なければならないのだろうか。何が何でも番組への出演の依頼を引き受けなければならないのだろうか。

 たとえ番組に出てほしいとたのまれたのだとしても、それを引き受けるか引き受けないかは、政治家の自己決定にまかされることだろう。番組に出たほうが良いとはかぎらないし、出ないのが悪いともかぎらない。

 テレビ番組に出るかそれとも出ないかは、何々であるの事実(is)だ。何々であるの事実をもってして、何々であるべきの価値(ought)を自動ではみちびけそうにない。自動でそれを導いてしまうと自然主義の誤びゅうにおちいってしまう。事実と価値の二つをふ分けすることがなりたつ。

 むりやりに番組に出させるのだと強制になってしまう。当事者である政治家が自分で番組に出るかそれとも出ないのかを決めるのでないと、外から強制することになり、自由ではなくなる。当事者の自己決定によるのでないと、父権主義(paternalism)のあり方になる。個人の自己決定をよしとしているのがいまの日本の憲法だ。

 中立のものなのがテレビ番組なのだとはいえそうにない。きほんとしてテレビ番組は国の思想の傾向(ideology)の装置だ。右にかたよった思想の傾向をもつテレビ番組が多い。日本の国をよしとしがちだ。国家主義(nationalism)である。左の思想の傾向のテレビ番組はちょっとしかない。

 どんどん右傾化が進んでいっているのが日本の国の政治だ。かつてよりも反自由の政治になっていっている。報道もまた右にかたよっていっている。報道が自由主義(liberalism)の公器ではなくなっているのである。

 テレビ番組に政治家が出るのは、自分のことを宣伝するためであることが少なくない。テレビ番組に政治家が出るのは、それそのものが自分を宣伝する効果をもつ。テレビ番組の画面に政治家が映ることによって、大きな宣伝の効果がおきるのである。

 損をするか得をするかでは、損をするようなテレビ番組への出かたを避ける。得をするようなテレビ番組への出かたをして行く。政治家はそうした行動をとることが多い。

 自分が損をしてまでも、テレビ番組に政治家が出ることはほとんどないことだろう。自分が損をするくらいだったら、テレビ番組に出ないほうがましだし、何かほかの得をえられる行動をしたほうが合理性が高い。

 そんなにきれいで純粋な動機づけ(motivation)で、政治家がテレビ番組に出るとは見なしづらい。多かれ少なかれ不純な(じゅんすいではない)動機づけによって政治家は動く。お金であったり票であったりのために動くのが政治家だ。

 日本のテレビ番組を批評してみると、きちんとした議論が行なわれることがほとんどない。きちんとした議論をするためには、議論の規則や倫理がなければならない。議論の規則や倫理が欠けていると、まともな議論にはならない。

 状況の点をくみ入れてみると、テレビ番組において、きちんとしたまともな議論ができることはほとんどのぞめない。議論の規則や倫理が欠けていることが多いから、テレビ番組に政治家が出ることがよくて、出ないのは悪いことだとはできそうにない。

 状況が悪いことが多いから、政治家がテレビ番組に出ることによい含意をこめることはできないし、逆にたとえ出ないからといって悪い含意をこめることもまた必ずしも成り立たないのがある。

 政治家の個人の要因であるよりも、それをとり巻く状況の要因をないがしろにできづらい。ひと口にテレビ番組といっても、それの範ちゅう(集合)と価値があるから、すべてがよい番組なのだとは言いがたいものである。悪い価値をもつ番組は少なくない。視聴率は高くても悪い価値をもつ番組はけっこう多いのがある。よい価値の番組は視聴率が低くなってしまう。

 政治家の価値の低さと、テレビ番組の価値の低さがあって、どちらも改善されるべきだ。よい価値をもつ政治家は少ないし(そう多くはない)、よい価値をもつテレビ番組もまた少ない。

 悪い価値をもつ政治家が、悪い価値をもつテレビ番組に出たってしかたがない。たんてきに言えば、(ナチス・ドイツアドルフ・ヒトラーのような)極右の政治家が右よりの番組に出たとしてそれにいったい何の意味があるだろうか。客観に益になるのであるよりも害になるところのほうが多そうだ。

 よし悪しを抜きにして、たんに政治家がテレビ番組に出ればよいものではない。政治家やテレビ番組のよし悪しをきちんとぎんみして行く。政治家にせよテレビ番組にせよ、悪貨が良貨を駆逐(くちく)してしまうのがあるから、悪いものが力をもちがちだ。

 とことんまでやることがいるのが政治だけど、テレビ番組ではそれをほとんどのぞめない。深くまでものごとを掘り下げるのに向いていないのがテレビ番組だ。時間の制約がかかる。費用や労力の制約もある。視聴率をできるだけかせがないとならないから、効率や速度が重んじられる。

 効率や速度が重んじられがちであり、適正さが欠けていることが多いのがテレビ番組だ。商売でやっているものだからそうなる。適正さが欠けていることが多いから、政治家がテレビ番組に出たからといって良いとはかぎらないし、出ないからといって悪いとも限らないのがある。

 適正にやろうとするとどうしても費用や労力が多くかかってしまうから、わりに合わなくなる。商売として損をしてしまう。手ぬきをするのでないともうからないのである。

 効率や速度を重んじすぎているテレビのあり方を批判することがなりたつ。たとえ政治家が出ているからといって、そこで政治がなされているとは限らないのがテレビ番組だ。とことんまでやるのでないと政治にはならないけど、テレビ番組はとことんまでものごとをやるのに向いていない。

 参照文献 『政治家を疑え』高瀬淳一 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『NHK 問題』武田徹 『思考のレッスン』丸谷才一(まるやさいいち) 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『はじめての批評 勇気を出して主張するための文章術』川崎昌平(しょうへい) 『絶対に知っておくべき日本と日本人の一〇大問題』星浩(ほしひろし) 『議論のレッスン』福澤一吉(かずよし) 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『公共性 思考のフロンティア』齋藤純一 『右傾化する日本政治』中野晃一(こういち) 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『本当にわかる論理学』三浦俊彦ナショナリズム 思考のフロンティア』姜尚中(かんさんじゅん) 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや)

万博の経済の効果と汚れの問題

 みんなにとって益になるものなのがもよおしの万博なのだろうか。

 費用はかかってしまう。税金はかかるものの、それを上回るほどの経済の効果を生む。そう言われているのが、二〇二五年に開かれる日本国際博覧会だ。関西で開かれることになっている。

 あたかもまんべんなくみんなに益になるかのように言われているのが万博だけど、そこでとり落とされてしまっているのが汚れの点だろう。きれいか汚いかの点である。それを組み入れて見てみたい。

 汚さの点を抜きにしてみると、負と正で、正のほうがうんと上回る。負である税金よりも、利益である正のほうがうんと生じるのだとされることになる。

 とり落とされてしまっている汚さの点をくみ入れてみると、どんどん汚れがたまっていってしまうのが、万博を開くことだ。なんで汚れがますますたまることになるのかといえば、日本の中心によってもよおされるものだからである。

 日本の中心にあるのが、与党である自由民主党や、第二自由民主党である日本維新の会だ。維新の会は自民党の補完の勢力である。中心を強めてしまうと、汚れがどんどんたまりつづけていってしまう。

 いま汚れに少し目が向けられているのがある。政治のうら金のことだ。うら金のことは汚れであり、それが表ざたになっているのである。うら金への批判がおきているのがあり、これは汚れをきれいにする働きだ。

 さすがに日本では、政治において汚れがたまりすぎている。これまでに中心にいるものによって汚れがそうとうにためられてきている。汚れがたまっている量がすごいことになっていて、隠し切れなくなっているのがあり、表に出てきているのがうら金のことだろう。

 みんなが良しとしているのではなくて、それなりの批判がおきているのが万博だ。万博への反対の声は小さくない。万博に反対するのや、万博を批判するのは、汚れをきれいにする働きだ。どちらかといえばそうだ。

 中心をますます強めることになるのが万博を開くことだ。第二自民党である維新の会を強めることになる(なってしまう)。それだと汚れをますますためていってしまう。

 費用対効果では、税金の費用がかかるのがあるけど、それだけではなくて、汚れがたまりつづけていってしまうのも見のがせない。汚れがきれいになるのではなくて、ますますたまっていってしまうのはかなりの費用だ。

 どれくらいの費用がかかって、どれくらいの利益があるのかの試算があるけど、その試算では、汚れの点がくみ入れられていないのである。汚れの点をくみ入れて試算してみると、すごい大きな費用がかかってしまう。効果はあんまりない。効果が少しあったとしても、それが殺されてしまう。

 もよおしをやるのは積極で、それをやらないようにするのは消極にひびく。積極のほうがよくて、消極は悪いかのような気がするけど、そうとはいえそうにない。消極のものがもつ積極性に目を向けてみたい。

 消極がもつ積極性としては、万博をやらないようにして中止したほうが、汚れをきれいにできる。汚れがたまりつづけていってしまうのを避けられる。中心を強めることで汚れがたまっていってしまうのを止めるようにしてみたい。

 汚れをきれいにする働きがあるのが、万博をやらないようにして中止することの良さだろう。万博はいわばにせのもよおしだけど、万博をやらないようにして中止することのほうがかえってもよおしの効果をもつ。非日常のものなのがお祭りなどのもよおしであり、日ごろにためられた汚れを少しでもきれいにできるのでないと意味がない。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『橋下徹の問題解決の授業 大炎上知事編』橋下徹

歴史の認識と暴力:イスラエルとパレスチナの紛争と歴史の視点

 歴史の点から、イスラエルがいまパレスチナになしていることを見てみるとどういった見なし方ができるだろうか。

 歴史の字がある。歴は起きたことや経験したことだ。史は書き記すことである。

 認識と解釈の二つにふ分けすることがなりたつ。歴史においてはその二つにふ分けすることができて、認識は五 W 一 H である。who、when、where、what、why、how の六つだ。認識の五 W 一 H は事実に当たるものだから、見なし方の食いちがいがおきづらい。

 歴史の認識である五 W 一 H で見てみると、パレスチナイスラム主義の勢力がイスラエルに暴力をふるうことがなされた。暴力をふるわれたのはイスラエルである。

 イスラエルに暴力をふるった主体をやっつける。暴力の主体をやっつけるために、イスラエルはいまにおいてパレスチナに暴力をふるっている。イスラエルが暴力をふるうことによって、パレスチナにいる子どもや女性が多く殺されている。パレスチナの子どもたちや女性たちが暴力の被害にあう。

 あったことを無かったことにはできづらい。解釈によるのであっても、すでに起きたことを無かったことにはできづらいのがある。あったことはあったことであり、それを認めざるをえない。歴史の認識である五 W 一 H のところは認めざるをえないのである。

 すでにおきたものである五 W 一 H のところは否定しがたいのがあるから、歴史の認識では食いちがいはおきづらいが、解釈では食いちがう。歴史の解釈においては食いちがいがおきるのがあり、とらえ方に相違(そうい)点がおきる。

 論理によって見てみると、世界中の多くの人をすべてだますことはできづらい。関係者を含めて世界中の多くの人をだますのは、ぼう大な労力がかかることだから、合理性が低い。歴史の認識である五 W 一 H のところは共通点になりやすいところであり、そこまでごう引に否定してしまうのは非論理である。

 絶対の真理とまではいえないのはあるけど、歴史において共通点になりやすいところがあって、そこは認めたほうが論理によることになる。真理がどうなのかについては、お互いに対話をし合うことが欠かせない。それにくわえて、うそを証明することができる可能性があるのでないとならないのもある。反証の可能性を持つことがいる。

 解釈においては、イスラエルは正しいことをなした。イスラエルは自国の行ないをそう解釈するだろう。自国の行ないを正当化や合理化する。どういうふうに解釈するのが正しいのかは、見なし方が分かれるのがあり、食いちがいがおきてしまう。

 国は自国の行ないを正当化や合理化するのがあり、自国に都合がよい解釈をして行く。歴史の解釈にかたよりがおきることになる。それとは別に、少なくとも歴史の認識である五 W 一 H は相違点がおきづらく共通点を持ちやすいところだから、そこは認めなければならないだろう。

 イスラエルパレスチナに暴力をふるい、パレスチナ人の子どもたちや女性たちに多くの被害がおきた。パレスチナ人の子どもたちや女性たちに多くの死者が出た。それをどのように解釈するのにせよ、起きたことそのものは否定しがたい。

 むりやりに解釈によって起きたことを否定してしまわないかぎり、起きたことは起きたこととしてある。暴力をふるわれた死者の意味あいは小さいものではなくて、その意味あいは大きい。暴力をふるわれてしまった死者にじゅうぶんに光を当てて行くことがだいじだろう。日ごろは生者を主にしているけど、それを転じて(生者を従にして)死者を主にするくらいのことがいる。

 生者では、暴力をふるわれた人に光を当てて行く。イスラエルによって暴力をふるわれた人たちがいて、そうした人たち(被害者)は負のこん跡をもつ。両義性(ambivalence)を持つことになる。排除のこん跡をもつ。両価性や両面価値性を持つ人たちに光を当てて行き、そこから十分に意味あいを見いだすことがいる。

 参照文献 『歴史 / 修正主義 思考のフロンティア』高橋哲哉歴史学ってなんだ?』小田中(おだなか)直樹 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『歴史家が見る現代世界』入江昭 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『現代思想を読む事典』今村仁司

暴力とは何か:イスラエルのパレスチナに対する行動の考察

 パレスチナでは、暴力がふるわれている。イスラエルの国によってだ。

 イスラエルがやっている暴力にたいして世界の色々な所で批判の声があげられている。具体としてのイスラエルの暴力をどういうふうにとらえられるだろうか。

 具体論としては、イスラエルパレスチナにたいして暴力をふるう。具体からやや離れて抽象論で見てみたい。

 抽象論によって見てみると、ある場所において、ある地域または人々にたいして暴力がふるわれている。そのさいの暴力とはいったいどういったものなのだろうか。

 イスラエルによって暴力をふるわれているのがパレスチナの地域またはパレスチナ人の人たちだ。パレスチナの地域またはパレスチナ人の人たちはなんで暴力をふるわれているのかといえば、ぜい弱性(vulnerability)を持っているからである。悪玉化(scapegoat)されている。贖罪(しょくざい)の山羊(やぎ)だ。ぜい弱性をもつものを排除するのが暴力である。

 世界の中でたった一つのところでだけ、暴力がふるわれているのではない。イスラエルパレスチナに暴力をふるっているのがあるけど、そこの場所だけで暴力がふるわれているのではなくて、ほかの色々なところでも暴力がふるわれている。世界の中で色々なところで暴力がおきている。

 パレスチナにはぜい弱性を持った人たちがたくさんいる。とりわけパレスチナ人の中で子どもや女性はぜい弱性を大きくもつ。ぜい弱性を大きく持っているのが子どもや女性だから、それらの人たちがたくさん殺されている。パレスチナ人の子どもや女性の死者の数はとても多い。ぜい弱性を持っていない人は暴力をふるわれづらいけど、それを持っている人は暴力をふるわれやすい。被害にあいやすいのである。

 世界のいたるところにぜい弱性を持った人たちがたくさんいる。たとえば学校の中だったら、いじめられっ子がいる。家庭の中だったら、親からぎゃくたいを受けている子どもがいる。いじめられっ子やぎゃくたいを受けている子どもは弱者だ。

 いじめっ子やぎゃくたいを行なっている親は、強者だ。イスラエルパレスチナの関係においてはイスラエルに当たる。

 比ゆとして、イスラエルパレスチナのことを、学校や家庭になぞらえて見てみたい。それらになぞらえてみると、学校において弱者に暴力がふるわれないようにして行く。いまの日本の憲法でいわれている人権を守って行く。憲法でいわれる人権をしっかりと守って行かないと、学校においてはいじめがおきてしまう。憲法の三つの柱のうちの一つなのが基本的人権尊重主義である。

 家庭においてはその中の弱者がいる。子どもや老いた人がいる。家庭の中では、子どもや老いた人は弱者に当たることがあり、暴力がふるわれることがある。人権がしんがいされてしまう。人権が守られるようにして行かないと、家庭の中で弱者に暴力がふるわれることになってしまう。

 具体論としては、イスラエルパレスチナに暴力をふるうことをいっこくも早く止めさせたい。具体からやや離れて抽象論によってみると、イスラエルにかぎらず、世界の中のいたるところにいる、ぜい弱性をもった人たちに暴力がふるわれないようにして行きたい。

 ぜい弱性をもった人たちは世界中にたくさんいて、たとえば学校の中とか家庭の中にいる。そこにおいて憲法でいわれる人権が守られているのでないと、学校の中であったり家庭の中であったりで弱者に暴力がふるわれることになる。

 イスラエルパレスチナにおいていったい何がおきているのかでは、そこで暴力がふるわれることがおきている。暴力がふるわれる点では具体論だけではなくて抽象論で見ることもできて、イスラエルパレスチナに限定化しないとらえ方がなりたつ。世界の色々な所で広くおきているのが暴力の現象だ。

 世界でたくさん起きているものである暴力の現象を少しでも少なくして行く。少しでも止めて行く。そのためには憲法でいわれる人権が軽んじられないようにして、それが守られるようにすることがいる。

 暴力がふるわれてしまいやすいぜい弱性をもった弱者のもつ人権がしっかりと守られるようにして行きたい。とりわけぜい弱性をもった弱者にとって大きな意味あいをもつのが、切り札(trump)としての権利だ。切り札性をもつ権利に当たるのが、憲法でいわれる人権である。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『よくわかる法哲学・法思想 やわらかアカデミズム・〈わかる〉シリーズ』ミネルヴァ書房 『いじめを考える』なだいなだ 『徹底図解 社会心理学 歴史に残る心理学実験から現代の学際的研究まで』山岸俊男監修 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや)

政治のうら金において核心に当たる元首相:社会の矛盾(dilemma)と憲法の重要性

 政治のうら金において、核となる政治家はいったい誰なのだろうか。

 周辺と核心の二つにふ分けしたさいに、核心に当たる政治家として、森喜朗元首相がいそうだ。

 与党である自由民主党森元首相は核に当たる。どうぶつで言うところの猫だと見なしてみたい。

 ねこの首に鈴をかけに行く。ねずみたちがねこの首に鈴をかけに行けるかどうかが試されている。

 社会の矛盾(dilemma)を片づけて行く。日本ではねずみたちがねこの首に鈴をかけに行こうとしづらい。社会の矛盾がなかなか片づかないのである。

 きびしい批判の声が投げかけられているのが、政治のうら金についてだ。うら金について人々からきびしい批判が投げかけられているのがあるので、ねずみたちがやる気になってきている。ねずみたちがねこの首に鈴をかけに行く動機づけ(incentive)が高まっているのだ。

 人のことをねずみと言う。ねずみと言ってしまっては失礼にひびくかもしれない。そのうえで、民主主義をなすのはどうぶつで言うところの羊だ。強いおおかみに頼ってしまっては民主主義をなすことはできなくなる。よわい羊たちの横のつながりによって民主主義はなりたつ。強いおおかみは独裁者だ。

 うら金の核となる政治家であるねこが力をもつ。ねこやおおかみが力を持ってしまうと、民主主義ではなくなってしまう。森元首相はねこやおおかみなのがあって、これまでにその首に鈴をかけられることがなかった。いまだにその首に鈴がかかっていない。

 ねこやおおかみが、力を持ったままになってしまう。日本でそれが起きてしまうのは、報道がきちんと機能していないからだろう。報道がやじ馬としての機能を十分にもち、ねこやおおかみの政治家に強い関心を寄せて行く。ねこやおおかみの政治家をどんどん批判としてとり上げて行く。ねこの首に鈴をかけて行くようにすることがいる。

 やじ馬としての働きが弱いのが日本の報道にはあるから、ねこやおおかみの政治家に照明が当たりづらい。ねこやおおかみの政治家に光が当たらずに、暗いやみの中に隠れてしまう。ねこやおおかみである森元首相がきちんと批判としてとり上げられてこなかったのがあり、日本の報道の機能の不全があらわれ出ている。

 森元首相だけではなくて、ねこやおおかみに当たるものとしては、安倍晋三元首相や、自民党のうら金の当事者の政治家や、政党では自民党などもそうだ。それらのねこやおおかみが力を持ちつづけてしまう。ねこの首に鈴をかけに行くのがなかなかなされづらいのが日本にはあって、それによってうら金のことがおきてしまった。

 報道がもっているべきやじ馬の機能が弱い。報道において、もっとやじ馬の精神を強くもって、ねこやおおかみに当たる政治家などをびしばしと批判としてとり上げて行かないと、日本の中の社会の矛盾がなかなか片づいて行きづらい。

 何らかの強制に従って行動することなのが他律性(heteronomy)だ。うら金のことでは、森元首相が超越の他者(hetero)に当たり、それによって下の人が動かされる。超越の他者はねこやおおかみであり、誰もそれにさからえない。自分の意思によってのぞましい行動をすることなのが自律性(autonomy)だけど、その自律性がいちじるしく欠けてしまう。

 他律性によっていて、超越の他者に動かされているのがあるから、そこを改めて行きたい。自律性によるようにしないと、ねこの首にねずみたちが鈴をかけに行きづらくなる。

 いまの日本の国の憲法では自律性がよしとされているのがあり、憲法をしっかりと守るようにしないと、超越の他者に動かされることになる。ねこやおおかみに当たる政治家がいつまでも力を持ちつづけてしまう。憲法が守られていなくて、超越の他者が下の人を動かしている図が見えてきているのが、政治のうら金のことにはある。

 参照文献 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『徹底図解 社会心理学 歴史に残る心理学実験から現代の学際的研究まで』山岸俊男監修 『思考のレッスン』丸谷才一(まるやさいいち) 『橋下徹の問題解決の授業 大炎上知事編』橋下徹法哲学入門』長尾龍一

映画館における多数者と少数者

 少数者が、快く映画館で映画を見られるようにして行く。

 からだに障害を持った人などの少数者を排除して、多数者だけが快く映画館で映画を見られるのでよいのだろうか。それとも、少数者を包摂した映画館のほうがよりのぞましいのだろうか。

 とくにからだに障害を持たないような多数者だけが、映画館で映画を見られればよい。少数者は映画館で映画を見られなくてもよい。多数者を主にするものだ。

 少数者は映画館で映画を見られるだけでよしとするべきである。すこしくらい不便なところがあってもがまんするべきだ。ウェブの X(Twitter)ではそうしたつぶやきが言われている。

 少数者を包摂しないで排除する映画館があるのだとすると、それについての正当性を問いかけてみたい。

 たしかに、映画館を営む民間の会社なんかは、財源のじじょうを抜きにはできなさそうだ。財源がきびしいのであれば、少数者を切り捨ててしまいかねない。多数者が優先になってしまう。財源にゆとりがあれば少数者を包摂しやすいのはあるかもしれない。

 財源の点をくみ入れてみると、少数者を排除する発想が出てきてしまいかねない。少数者に不快を与える映画館が作られてしまう。

 映画館で映画を見るさいに、少数者が不快をおぼえる。たとえ不快をおぼえたのだとしても、それくらいはがまんせよ。または、不快をおぼえるのであればその映画館を利用しないようにするべきだ。そういったことが言われているけど、不快をおぼえるところでいったん立ち止まるようにしたい。

 なんでその映画館を利用することで少数者が不快をおぼえるのだろうか。不快さがあるのだとすれば、それを思考して行く。不快を思考することがあったらよい。少数者を排除するような冷たさのある映画館を、人間化して行く。非人間の映画館を人間化して行く。そういった改善がなされればよい。

 いまの時点で、その映画館のありようが、非標準や不平等や非人間なふうになっているのだとすれば、それらを改めるようにして行く。標準化や平等化や人間化だ。

 いっけんすると、少数者が映画館に文句をつけたりけちを付けたりしているように受けとれる。表面としてそう受けとれてしまうのはあるけど、少数者と映画館があるとして、その二つのうちで変わることがあったらよいのは映画館の方なのである。

 ふつうだったら、多数者は変わらなくてよくて、少数者がそのあり方に合わせるべきだとされてしまう。それだと非標準や不平等や非人間なあり方が改まらないのである。放ったらかしにされてしまう。きもになるのは、ふつうは変わらなくてよいのだとされる多数者の方を変えて行く。標準化や平等化や人間化するさいにはそれがきもになる。

 そういうふうに映画館のありようがなっているのだから、少数者はそれに合わせよ。X のつぶやきでそう言われるのがあるけど、そのさいの映画館のありようはかくあるの事実(is)だ。かくあるの事実から、かくあるべきの価値(ought)を自動ではみちびけそうにない。自動でそれを導いてしまうと自然主義の誤びゅうにおちいってしまう。

 少数者が不快をおぼえることがあるのであれば、それについてどんどん批評して行く。映画館で不快をおぼえるようなことがあったら、がまんしないでどんどん批評していったらよい。映画館にかぎらず色々なことについて、少数者が批評をして行く。そうして行けば、うまくすれば多数者のありようを変えることがなりたつ。

 ふつうはそれをやらなくてもよいのだとされてしまうものである、多数者のありようを変えて行く。あり方の標準化や平等化や人間化をなす。できればあり方が改まったほうがよいのがあるから、多数者のあり方を一方的に少数者に押しつけるのは十分な正当性があるとはいえそうにない。

 そういうふうになっているのだからとするのはものごとの自然化だ。それを脱自然化して行く。人が人工で構築したものなのであれば、うまくすればそれを変えることがなりたつ。まったく不変のものなのではない。

 映画館のありようは人が人工で構築したものなのだから、いっさい変えることができないものだとは見なせそうにない。脱構築(deconstruction)することがあってもよくて、少数者を含めて人にやさしいあり方に一から作り直すことがあってもよいものである。

 自分の意思によってのぞましい行動をして行く。自律性(autonomy)だ。いまの日本の憲法では自律性がよしとされている。何らかの強制にしたがって行動するのは他律性(heteronomy)である。

 できるだけ少数者が自律性によるようにできたほうがのぞましい。少数者が自己決定できるようにして行く。他律性によるのだと、父権主義(paternalism)になってしまう。

 父権主義で、こうせよとかああせよとかとされるのは、自分がもしも少数者だったらいやなものである。当事者を抜きにして第三者や局外者がいばるのはこまる。超越の他者(hetero)によって動かされたくないものである。上から命じられるのはゆかいではない。当事者が自己決定できたほうが良いのがある。

 参照文献 『社会的排除 参加の欠如・不確かな帰属』岩田正美 『本当にわかる論理学』三浦俊彦精神分析 思考のフロンティア』十川幸司(とがわこうじ) 『だれか、ふつうを教えてくれ!』倉本智明 『はじめての批評 勇気を出して主張するための文章術』川崎昌平(しょうへい) 『トヨタ式「スピード問題解決」』若松義人 『橋下徹の問題解決の授業 大炎上知事編』橋下徹構築主義とは何か』上野千鶴子編 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫

うら金の真実:政治家による作られた知識の虚と実

 うら金のことは、まったく知らなかった。口をそろえて政治家はそう言う。当事者の政治家は、自分は政治のお金のことをはあくしていなかったのだとしている。

 知の点から、うら金のことを見てみるとどういったことが見えてくるだろうか。

 権力が関わるのが知だ。知と権力である。じゅんすいなのではなくて、権力が関わった形であるのが知識である。とりわけ政治においてはそうだろう。

 ものごとをはあくする。ものごとを知っている。知識を持っていることだ。与党である自由民主党の政治家は、うら金のことについての知識を持っていなかったのだとしている。まったく知らなかったのだとしているのである。

 うそをついている見こみがすごく高いのが、うら金の当事者の政治家たちだ。ほんとうはうら金のことについての知識をうんと持つ。うら金についての知識を持っていないはずはない。政治のお金のことへの動機づけ(motivation)がうんと高い。お金には目がないのである。お金だけで動く。お金によって動く。与党の政治家はそうしたところがとりわけ強い。

 少しややこしいのがあるけど、知識を持っていないのだとする知識を広めて行く。ほんとうは知識をうんと持っているのだけど、それを知られてしまうとはなはだまずい。知られたらまずい知識をかくすために、作られた知識を広めて行く。

 作られた知識であるのが、うら金のことへの無知だ。政治家がうら金のことに無知なのだとするのは、そういう知識が広まったほうが自分に利益になるからだろう。

 たとえそのことへの知識をうんと持っているのだとしても、そのことが知られてしまうと自分に不利益になるのであれば、それが広まらないようにして行く。あたかも全くそのことへの知識がなくて無知であるかのような、作られた知識を広めて行く。

 無知だとする知識を広めたほうが、自分の利益になるのであれば、たとえそれが作られた知識にすぎないのだとしても、どんどん広めようとするのが政治家だろう。悪い政治家だと、どういう知識を広めたほうが自分にとって利益になるのかを計算して、その計算にもとづいて言動をして行く。

 本当はそのことをうんと知っていて、知識をすごく持っているのにもかかわらず、無知をよそおう。無知をよそおった知識を広めたり、そのぎゃくにあまり知らないことでもうんと知っているふうによそおった知識を広めたりすることがある。

 国民がほんとうの知識を得て行く。有権者が本当の知識を得られればよいけど、政治家はしばしばうそをつく。作られた知識を広めて行く。知識には権力が関わるのがあるから、それには気をつけたい。

 うら金についての知識では、そこに権力が関わっているのがあり、当事者の政治家にとって知られてほしくはない知識と、知られてほしい作られた知識とがありそうだ。いろいろな価値をもつ知識があるけど、政治家による作られた知識がその中にあるから、政治家による語りをしっかりとうたがって行きたい。政治において知識をうたがってみるのは益になる。

 構築主義では、知識の社会性が言われているのがある。知識が社会において交通して行く。うら金のことでは、うら金についての知識があって、それが報道などによって人々に知られるところとなった。うら金の問題が発見されたのは、報道の手がらなのがあり、報道の自由によるところのものだ。

 報道の自由があるためには、それをほしょうしている憲法を守ることが大事だ。いろいろな知識を国民が得るためには、国民の知る権利がいり、憲法のだいじさが浮かび上がってくる。具体のうら金のことについての知識とはべつに、憲法のだいじさの知識がもっと広まったらよい。

 憲法の値うちの知識が人々に広まったら、与党である自民党の政治家には不利益にはたらくから、できるだけその知識を広めたくない。あたかも憲法の改正が絶対にいるかのような知識を広めて行く。

 憲法についての知識では、そこに知と権力のことがおきてしまい、憲法のもつ値うちが十分に広まっていない。ざんねんだ。とはいっても、憲法がすごい値うちを持っているのだとする知識もまた、知と権力であるのはうたがいない。じゅんすいな知識とはいえず、権力が少なからず関わる。知識の社会性によるものであり、知識の交通によるものだ。

 つねに当てはまる性質なのが普遍(ふへん)である。つねに当てはまるものであることから、みんながもれなくそれを押さえておくべきだとなる。いまの日本の憲法は普遍なのがあり、押しつけのところがある。

 すごいよいものなのが普遍ではあるけど、押しつけの性格をもつ。知と権力である。固有の性質である特殊なものだったら、押しつけられるいわれはない。必ず押さえていなければならないものではないのが特殊だ。特殊であれば押しつけをこばめるのがあるけど、普遍だとそれができづらい。

 事実と価値はふ分けできるから、あることへの価値については自由にとらえることがなりたつ。あることの価値のあり無しは、人それぞれの自由だ。憲法であれば、事実としてそれがあるとは言えるけど、そこから自動でそれに価値がある(もしくは価値がない)とはみちびけそうにない。

 参照文献 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』西林克彦 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『うたがいの神様』千原ジュニア 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『政治家を疑え』高瀬淳一 『情報操作のトリック その歴史と方法』川上和久 『うその倫理学』亀山純生(すみお) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦現代思想を読む事典』今村仁司

自由主義(liberalism)からの考察:イスラエルとパレスチナの関係

 パレスチナに自由を。パレスチナを自由にせよ。イスラエルへの批判で、それが人々によって言われている。

 イスラエルに暴力をふるわれて攻撃されているのがパレスチナだ。自由にすることがいるのがパレスチナだが、自由についてを改めて見てみるとどういったことが見えてくるだろうか。

 自由にすることがいる点では、パレスチナがまずある。それにくわえて、パレスチナに暴力をふるっているところのものであるイスラエルにもまた、自由をもち出すことがなりたつ。

 イスラエルに自由を。イスラエルを自由にせよ。そう言うこともできるかもしれない。このさいの自由は、自由主義(liberalism)によるものだとしてみたい。中立な立ち場から判断する思想なのが自由主義だ。

 何々への自由は積極の自由である。何々からの自由は消極の自由だ。イスラエルへの自由だけではなくて、イスラエルからの自由もいる。イスラエルにおいて、イスラエルからの自由である消極の自由があるかどうかはだいじだ。何々への自由である積極の自由があるだけではよいあり方ではない。

 どうしてイスラエルパレスチナに暴力をふるって攻撃をしているのだろうか。そのわけとしては、パレスチナイスラム主義の集団が専制主義によっているのがある。悪い意味での共同体主義になっている。

 暴力をふるう正当な理由になるものではないけど、専制主義であるのならば、それは批判されるべきではある。パレスチナイスラム主義の集団が専制主義になっていて、悪い意味での共同体主義になっているのであれば、その共同体は批判されることがいる。

 国の中に悪い共同体があるのであれば、それを国が批判することがあってよい。たとえ専制になっている悪い共同体が国の中にあるのだとしても、それにたいして国が一方的に暴力をふるってよいとは必ずしもいえそうにない。よほどのことがないかぎりは、原則として暴力の手だてを国は使うべきではない。

 国の悪さと、共同体の悪さがある。あと経済の悪さもまたある。経済の悪さは、行きすぎた資本主義である新自由主義(neoliberalism)などだ。市場主義によりすぎるものである。

 三つのものである国と共同体と経済が、たがいに批判し合う。国が悪いのであれば、共同体や経済がそれを批判して行く。共同体が悪いのであれば、国や経済がそれを批判することがあってよい。経済が悪いのであるならば、国や共同体がそれをさし示して、改善をうながす。

 イスラエル専制のあり方になってしまっていて、自由主義の点からするとそこがよくない。それとともに、パレスチナイスラム主義の集団も専制のあり方になっていて、悪い意味での共同体主義になっているのがある。

 二つの主体がいて、一つは国であり、もう一つは共同体だ。主体としての国は、行動者として、客体である相手へ暴力をふるう。客体としての共同体に暴力をふるっている。主体としての国が用いている手段が暴力なのがあるから、用いている手段がよくない。

 主体としての共同体は、客体としての相手へ暴力をふるう。客体としての国(イスラエル)へ暴力を振るっているのがある。主体としての共同体が用いている手段が暴力なのがあるから、そこは悪い。主体としての共同体が用いている手段はよくないものだ。

 一方の主体だけが、悪い手段を用いているのではない。二つの主体のどちらもが悪い手段を用いていて、比べてみると主体としての国のほうがより大きな暴力を用いている。

 主体としての共同体よりも、主体としての国のほうがより大きな暴力をふるう。国は公の国の装置(軍隊や警察など)を持っているからだ。その地域の暴力を独占しているのが国である。公の国の装置の有無のちがいをくみ入れると、より強い理由(a fortiori)によって批判されることがいるのが、主体としての国である。

 パレスチナにたいしてイスラエルが暴力をふるって攻撃しているのを、止めさせる。そのためには、一つにはイスラエル自由主義によるようにして行く。イスラエルに自由を、とできるのがありそうだ。

 イスラエルにおいて自由化や民主化をすることがいる。イスラエルを自由にせよとか、イスラエルに民主主義をとできるのがあり、国や共同体(や経済)の専制のあり方を改めて行くことが必要だ。政治においての自由では、国が反自由の政治になっているのだとすれば、それを改めるようにして行きたい。

 参照文献 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『右傾化する日本政治』中野晃一(こういち) 『ナショナリズム 思考のフロンティア』姜尚中(かんさんじゅん)

日本の社会における差別の問題 : 日本には差別はまったくないのか

 差別は、日本には無い。与党である自由民主党の女性の政治家はそう言う。

 自民党の政治家が言うように、はたして日本には差別がまったく無いのだろうか。

 差別がまったく日本にはないのにもかかわらず、差別があたかもあるかのように語っている。少数の民族の人たちは、無いものをあたかも有るかのようにしているのだという。

 命題として見てみたい。真か偽かの判断の対象となる問題が命題だ。

 日本の国であるのならば、差別はまったくない。自民党の政治家が言っていることからするとそうしたとらえ方が成り立つ。

 命題をひっくり返して対偶(たいぐう)にしてみると、こうすることがなりたつ。差別があるのならば、日本の国ではない。日本の国の中に差別があるのを見つけることができれば、反例を見つけられたことになる。差別がないものとしての日本の国における反例を見つけられたことを示す。

 見つけようと思えばいくらでも反例を見つけられるのがありそうだ。差別は日本の国のあちこちにあるものだろう。反例はいっぱいあるだろうから、自民党の政治家の言っていることを命題としてとらえてみると、真であるとは言えそうにない。

 差別がないのが日本なのだとする命題は、象徴化(symbolize)することで真だとされてしまう。日本の国を象徴化することで、命題を真だとすることになる。象徴化すると、日本の国が抱えている負のところが隠ぺい化されてしまう。差別は日本の国が抱えている負のところだから、それを隠ぺい化しないようにしたい。象徴化した日本は現実の日本とはちがっていて、思想の傾向(ideology)だ。

 そもそも、日本の国には差別はまったくない。そういった価値観を自民党の政治家はもつ。この価値観はのぞましいものだとはいえそうにない。あやまった価値観を自民党の政治家は持っている。

 どういう価値観を持つのがよいのかといえば、そもそも差別はよくないものだ、としてみたい。差別はよくないのがあり、いまの日本の国の憲法でそれが言われている。法のもとにおいてみんなが平等なのがいる。社会における平等のことなのが正義だ。

 できるだけいまの日本の国の憲法を重んじて行く。日本で差別がおきないようにするためには、憲法を重んじるようにするのが有益だ。憲法をないがしろにしてしまうと、日本で差別がおきるのをうながす。差別がおきるのを防ぎづらい。

 まちがいのない真理を自民党の政治家が述べたのだとはいえそうにない。あらゆる意見は、うそを証明できる可能性を持たないとならない。反証の可能性を持っていることがいる。

 そもそも日本の国には差別はまったくないのだとするのは演繹(えんえき)だろう。差別について、演繹はなりたちそうにない。一般の法則から個別の答えをみちびく思考法が演繹だ。

 帰納(きのう)によって見て行きたい。個別の事例から一般の法則をみちびく思考法によってみると、差別がまったく一つの事例も日本の国の中にはないのだとは証明できづらい。日本の国の中で、まったく一つの事例も差別がないかどうかを調べつくすことはできないものだろう。

 日本では、差別はけっこうある。自民党の政治家が言っていることとは逆に、そうとらえることが成り立つ。日本と関わりが深い国であるアメリカなんかでも、東洋の人や、アフリカ系のアメリカ人の人たちへの差別がいまだに根づよい。階層(class)の格差があるのだ。

 アメリカなんかでも差別がけっこうあるし、日本でもそれがけっこうある。階層の格差があることはいなめない。普遍化することができない差別がアメリカでも日本でもある。そういった差別をなくして行き、差別を排除して行く。普遍化できない差別を排除して行く。視点や立ち場の反転の可能性の試し(test)を行なう。自由主義(liberalism)ではそれがいる。

 中立な立ち場から判断する思想なのが自由主義だ。できるだけ憲法自由主義を重んじて行って、日本の国の中にある色々な差別をなくして行きたいものである。憲法を軽んじたり自由主義をないがしろにしたりするのがあるから、それらを改めて行きたい。

 参照文献 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『人を動かす質問力』谷原誠 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『社会階層 豊かさの中の不平等』原純輔(じゅんすけ) 盛山(せいやま)和夫 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明 『差別と日本人』辛淑玉(しんすご) 野中広務(ひろむ) 『差別原論 〈わたし〉のなかの権力とつきあう』好井裕明(よしいひろあき) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信構築主義とは何か』上野千鶴子編 『「他者」の起源(the origin of others) ノーベル賞作家のハーバード連続講演録』トニ・モリスン 荒このみ訳 『アイデンティティ(identity) / 他者性(otherness) 思考のフロンティア』細見和之(ほそみかずゆき) 『ナショナリズム 思考のフロンティア』姜尚中(かんさんじゅん) 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『ポストコロニアル 思考のフロンティア』小森陽一