じっさいに選挙に出るのはれんほう氏そのものだ。そのものではなくて、のようなものにしてみるとどういったことが見えてくるだろうか。
そのものは一人しかいない。量は一人である。のようなものにすれば、量を増やせる。一人より以上にすることがなりたつ。
いまの現職の都知事である小池百合子都知事は、はじめのころはれんほうのようなものだった。蓮舫のようなものの一人だったのである。
そのものではないけど、のようなものだとすれば、はじめのころの小池都知事はれんほうのようなものだったけど、とちゅうで劣化してしまった。とちゅうから堕落したのである。退廃(decadence)がおきた。
どういうものが、蓮舫のようなものなのかといえば、わかりやすくは、与党である自由民主党と対立する。自民党からきらわれる。はじめのころの小池都知事は、自民党と対立していて、きらわれていた。
とちゅうから小池都知事は自民党とすごく協調するようになった。対立するのがなくなって、協調するだけになってしまう。自民党とのあいだに政治がなくなった。対立がなければ政治はない。
権力をにぎってしまうと、蓮舫のようなものではいづらくなる。蓮舫のようなものではなくなってしまいやすい。
権力をにぎりながらも、蓮舫のようなものでいつづける。蓮舫のようなものであるのを保ちつづけるのは、そこまで簡単ではない。小池都知事のように、とちゅうからだめになってしまう。悪い方向に流されてしまう。
とちゅうから小池都知事は、蓮舫のようなものではなくなってしまった。初心からかなり遠ざかっている。はじめのころの小池都知事と、いまの小池都知事とが、ぶつかり合う。対立し合う。こんかいの都知事の選挙では、そうしたことがおきているととらえることができなくはない。
反小池なのが、蓮舫のようなものだ。もともと小池都知事に近しい関係者だった人でも、いまでは反小池になっている人がいく人かいる。反小池になっている人は、蓮舫のようなものである。
もしもじっさいの蓮舫氏が選挙で勝ったら、権力を握ることになる。権力をにぎることによって、変わってしまう。蓮舫氏が都知事になって、とちゅうから悪くなってしまうことがあるかもしれない。
小池都知事とはちがって、もしも蓮舫氏が都知事になったとしたら、ずっとまっとうなあり方でいつづけられるのだろうか。そうとはかぎらない。初心をずっと持ちつづけられるとはかぎらない。とちゅうで心が悪い方向に流されてしまう。百合子のようなものになってしまう。
じっさいの小池都知事は一人しかいないけど、百合子のようなものであれば、量を一人より以上に増やせる。日本の中においては、蓮舫のようなものは少ない。百合子のようなものはとても多い。
すごく日本人らしいのが、百合子のようなものなのだ。とりわけ小池都知事がだめだといったことであるよりも、日本においてはそうなりがちなのがあるから、それを批判したい。悪い方へぶれやすいのが日本にはある。
日本においてはとくにめずらしくはないものだから、だれであっても百合子のようなものになりやすい。できるだけそうならないようにして行きたい。
小池都知事はかなりの力を持っていて、けっこう票を集める力を持つ。組織の票をもっている。じゅんとうに行けば、選挙では小池都知事が勝ちやすい。れんほう氏は勝つのがかなり難しく、きびしい。番狂わせがないかぎりは小池都知事が選挙で勝ってしまいそうだ。日本の国の中で、百合子のようなものがたくさんいて、多数派であることを示している。
参照文献 『日本人論 明治から今日まで』南博 『政治家を疑え』高瀬淳一 『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』森博嗣(ひろし) 『現代政治理論』川崎修(おさむ)、杉田敦(あつし)編 『政治の見方』岩崎正洋 西岡晋(すすむ) 山本達也