アメリカの学生に学ぶ希望(hope)の持ち方:政治における希望(期待)と絶望のつり合い

 政治で、うったえかけを行なう。

 アメリカでは、大学の学生がうったえかけの運動を行なっているという。イスラエルを批判する声をあげる。イスラエルパレスチナに暴力をふるっているのを批判する。

 学生が政治のうったえかけの運動をするのには疑問の声もあるが、そこには希望はあるのだろうか。

 一〇割の希望もなく、一〇割の絶望もまたない。希望は虚妄であるのとともに、絶望もまた虚妄である。中国の文学者の魯迅(ろじん)氏はそう言う。

 せっかく大学に入ったのに、そこを退学させられてしまいかねないような、政治のうったえかけの運動を行なうのはもったいない。考えものだ。日本のテレビ番組の出演者はそう言っていた。

 日本の大学と、アメリカの大学は必ずしも同じあり方ではないかもしれない。日本の大学は入るのがむずかしいが出る(卒業する)のはかんたんだ。アメリカの大学は入るのはかんたんだけど出るのは難しいという。

 希望学から見てみると、希望(hope)の四つの要素がある。思い(wish)と具体性(something)と実現性(come true)と行動(action)だ。

 思いとしては、イスラエルパレスチナに暴力をふるっているのを許せない。許容できない。具体性としては、イスラエルパレスチナに暴力を振るうのを何とかして止めさせたい。世界で平和をなして行きたい。戦争を防ぎたい。反戦だ。

 実現性は、こうあったらよいとするものをじっさいに現実化できるかどうかだ。現実化するために何かをおこなって行くのが行動である。

 日本の学生とアメリカの学生を比べてみると、アメリカの学生の方がより希望をもちやすいかもしれない。日本人は日本語が母語であり、どうしても日本語の制約の条件をもつ。アメリカの学生は英語が母語だから、そこがよく働く。英語は国際語だから、英語を使えるほうが希望を持ちやすいのである。

 政治のうったえかけの運動を学生がやるとして、そこにどれだけの有効性があるのかがある。有効性においては、臨界の質量(critical mass)がある。たくさんの人たちがうったえかけの運動をやれば、臨界の質量にいたりやすい。少しの人たちしかうったえかけの運動をやらないのだと、臨界の質量にとどきづらい。

 みんなが見て見ぬふりをするのだと、臨界の質量にとどかないのである。多くの人を動員(mobilization)することができれば、たくさんの人たちが行動を共にすることになるから、臨界の質量にまでいたりやすくなる。社会を動かす力になる。何か悪いことをやめさせられる。悪いことが行なわれていることに、歯止めをかけられる。

 どれだけ希望が持てるのかといえば、あまり希望が持てないことが多い。日本の政治なんかだと、希望を持ちづらくて、悪いことに歯止めをかけづらいのがある。臨界の質量にまでいたりづらいのである。

 希望を持ちづらい中で、悪いことがなされてしまう速度を、少しでも遅らせて行く。速い速度で悪いことがやられてしまうのを、少しでも遅らせる。それくらいだったらできるかもしれない。

 現実はなかなかきびしいから、悪いことがなされる速さを遅らせる試みくらいしかできないのがあり、限界がある。アメリカの現実もきびしさがあるだろうけど、アメリカよりもより希望を持ちづらいのが日本にはあるかもしれない。

 日本の政治には希望を見出しづらいところがある。希望を持てないからといって、絶望におちいるのはのぞましいものではない。中庸(ちゅうよう)さがだいじだ。ほどほどになるようにする。政治ではほどほどさもまたいる。期待しすぎず、絶望しすぎずのつり合いだ。

 何でも悪くとらえる態度なのが悲観主義だから、そうならないようにして、希望を少しでも持つことがいりそうだ。その点では、アメリカの学生たちを見習うのがあってもよい。

 参照文献 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『入門 パブリック・リレーションズ』井之上喬(たかし) 『希望のつくり方』玄田有史(げんだゆうじ) 『魯迅(ろじん)に学ぶ批判と抵抗 佐高信の反骨哲学』佐高信(さたかまこと) 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『徹底図解 社会心理学 歴史に残る心理学実験から現代の学際的研究まで』山岸俊男監修 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『ポリティカル・サイエンス事始め』伊藤光利編 『原理主義と民主主義』根岸毅(たけし) 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『法哲学入門』長尾龍一 『情報政治学講義』高瀬淳一