環境省と公害の被害者とのあいだの交通(communication)

 水俣病の被害者の人たちに、聞きとりを行なう。

 環境省の大臣(環境相)が被害者の人たちに聞きとりをしたが、持ち時間が三分しか与えられなかったという。三分を超えて話した人がいたが、役人はマイクの入力を切った。

 たった三分ほどしか話す時間が与えられていなかったが、それを一秒でも超えたらいけないのだろうか。三分を少しでも超えたら、大臣はもういっさい聞くことはいらず、マイクの入力を切ってもよいのだろうか。

 与えられていた持ち時間である三分を超えてしまったのは、一つの現象だろう。その現象だけをとらえるのだと、なぜその現象がおきたのかがとり落とされてしまう。なぜその現象がおきたのかを問いかけることがいる。なぜそうなのか(why so?)の問いかけをくり返す。なぜなぜ分析だ。

 挙証の責任を転じてみたい。決められた持ち時間を守れなかったのは、あたかも被害者が悪いことであるかのようになるけど、そうではなくて、国や役所に悪さがある。あまりにも与えられた持ち時間が短すぎたのである。

 挙証の責任を転じるようにしてみると、国や役所の責任が問われることになる。三分間だけではなくて、できればもっとたっぷりと話す時間が与えられるべきだろう。

 おもてなし(hospitality)の気持ちがどれだけあったのかがある。何がいるのかといえば、被害者をおもてなしする気持ちである。その気持ちを大臣や役人が持っていなかったのであれば、お義理で聞きとりをしたのにすぎない。冷たい義理だ。人情をともなった温かい義理ではなかったのである。

 すごい短い時間しか話す時間が与えられないのだと、国や役人に有利にはたらく。国や役人は強い立ち場であり、被害者は弱い立ち場だろう。法の決まりは、強い立ち場に有利になるものなのだとまずい。弱い立ち場に有利にはたらくものであることがいる。

 理想論としては、政治家や役人はすごい温かい義理であることがいる。人情をともなった義理だ。そこまでは現実論としてはのぞめないのだとしても、もうちょっと温かさがあってもよかったのがある。人情をもっと持つようにするべきだった。

 もっと役人が人情をもっていて、温かい義理であったとしたら、三分間をはみ出して話したのだとしても、マイクの入力を切ることはなかっただろう。三分間より以上に話しても、許容されただろう。話す必要性があるから話しているのであり、まったく無駄なことを話しているのではないのだから、許容されるのがのぞましい。

 何がもっともかんじんなことなのかといえば、話すことが三分間におさまるかそれともおさまらないかにあるのだとはできそうにない。時間の内におさまるかどうかがかんじんなことなのではなくて、話の内容にどれくらいの値うちや意味あいがあるかどうかがかんじんだ。

 話す長さが三分間より以上になって、時間をはみ出す。時間が長くなれば、情報が増えるのだから、情報の値うちが高まる。より深く知ることがなりたつ。話す時間が長くなれば、それだけ情報が増えて、より良くなるととらえることがなりたつ。まったく意味がない雑音(noise)が話されていたわけではないだろう。

 どういうふうであれば良かったのかといえば、三分間でないほうが良かった。三分間だけではなくて、もっと長めの時間があればよかった。時間の長さは資源(resources)に当たるものであり、時間が短すぎると資源がとぼしい。資源がとぼしいと創造性が低くなってしまう。

 政治家や役人にも、被害者にも、どちらにも資源がもうちょっとあれば、創造性を高くすることがのぞめる。とんでもなく創造性を高めるべきだとするのはのぞみすぎかもしれないが、少しであったとしても創造性を高めて行くようにつとめるべきだろう。そのために、資源が乏しすぎるのを改めるようにして、時間の長さをもうちょっと持つようにすることがあってよい。

 参照文献 『入門 パブリック・リレーションズ』井之上喬(たかし) 『創造力をみがくヒント』伊藤進 『法とは何か』渡辺洋三(ようぞう) 『社会認識の歩み』内田義彦(よしひこ) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『義理 一語の辞典』源了圓(みなもとりょうえん) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『トヨタ式「スピード問題解決」』若松義人 『考える技術』大前研一 『「責任」はだれにあるのか』小浜逸郎(こはまいつお) 『環境 思考のフロンティア』諸富徹(もろとみとおる) 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『差別原論 〈わたし〉のなかの権力とつきあう』好井裕明(よしいひろあき)