ブラジルでの、政治の暴動(乱入)のできごと―アメリカやブラジルでの暴動と、民主主義の危機

 ブラジルでは、政治で、議会や裁判所に人が乱入するできごとがおきたという。

 アメリカでも、政治で、議会に人が乱入することがおきたけど、ブラジルでもそれがおきた。民主主義に危機がおきているといえそうだ。どうしてこのようなことがおきたのだろうか。

 一つの原因だけではなくて、いろいろな要因によってアメリカやブラジルでは政治の公の場所への乱入のできごとがおきたのだろう。

 政治における、味方(友)と敵との対立のはげしさがある。それと、哲学者のフリードリヒ・ニーチェ氏のいう負けおしみ(ressentiment)が関わってきそうだ。

 学者のカール・シュミット氏がいうには、いろいろな対立のなかで、政治のそれがもっともはげしいものになりやすいという。そうしたことから、アメリカやブラジルでは政治の公の場所への乱入のできごとがおきた。そう見なせそうだ。

 政治でのはげしい対立を和らげるためには、友敵の対立(antagonism)を、闘技の対立(agonism)へと変えて行く。科学のゆとりを持てないのが友敵の対立だ。科学のゆとりをもてるのが闘技の対立だ。闘技だと、遊びのところがややあるから、ゆとりを持ちやすい。

 遊びでは、自分を抑制したり、(じかの暴力ではない形で)批判したり、相対化したりすることができやすい。政治における相対主義の表現なのが民主主義なのだと、学者のハンス・ケルゼン氏はいう。

 政治で負けると、負けおしみがおきることがあるが、そのさいにいるのが立憲主義だろう。近代の立憲主義憲法がきちんとあれば、たとえ政治で負けたとしても、すごい強い負けおしみにはなりづらい。負けたら、すなわちだめだとか(いっかんの)終わりなのだとはなりづらい。負けたとしても一定の尊厳を保てる。

 科学のゆとりを持てていれば、負けおしみを和らげることができやすい。負けるが勝ち(stoop to conquer)といわれるのがあるから、政治で負けたとしても、今回はそうなったけど、また次があるのだとしやすい。

 立憲主義がこわれてしまっていると、勝ちつづけとか負けつづけとなってしまい、勝ちと負けが固定化されてしまう。負け、つまりだめだとか終わりだとなってしまう。負けおしみがすごい強くなりやすくなって、社会の中が危なくなってしまう。そうならないためにも、立憲主義をいかに保ち、(近代の立憲主義の)憲法をいかに重んじるかが求められる。

 参照文献 『憲法という希望』木村草太(そうた) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『よくわかる法哲学・法思想 やわらかアカデミズム・〈わかる〉シリーズ』ミネルヴァ書房ホモ・ルーデンスヨハン・ホイジンガ