お笑い芸人の危機の管理(crisis management)と、社会における役割

 芸能人が、性の加害をなした。そのうたがいが、週刊誌で報じられている。

 男性の大もののお笑い芸人が、性の加害をなしたぎわくがある。ぎわくを受けて、お笑い芸人は芸能の活動を休んでいる。活動を休みながら、裁判で争うかまえだ。紛争を片づける一つの手なのが裁判だ。

 お笑い芸人の性のぎわくをどのように見なすことができるだろうか。

 記者会見を開かずに、芸能の活動を休むことにしたのがお笑い芸人だ。裁判によって決着をつけるつもりのようである。

 お笑いの仕事をしていたのが、お笑い芸人だ。日本のテレビの世界で、すごい活躍をしていた。すごい売れっ子だったのである。そうとうに仕事ができるのだから、お笑いの仕事さえしっかりとやっていればよい。負のことがおきても、それを笑いに変えさえすればよい。負のことを笑いに転じられればそれでよい。そう見なせるのだろうか。

 いっけんすると、お笑いの芸人なのだから、お笑いの仕事さえしっかりとできていればよいかのようである。仕事さえきちんとできていればそれでよいかのようではあるけど、改めて見るとそうとは言い切れそうにない。

 専門であるお笑いの仕事とは別に、何をやらないとならないのかがある。何をせざるをえないのかといえば、危機の管理(crisis management)だ。危機の管理ができているか、それともできていないかが、大きくものを言う。大きくものを言ってしまう。

 自分から主体として危機の管理をやって行く。それができていればよかったのが、お笑い芸人だろう。危機の管理を自分から主体としてやって行くようにすれば、社会の関係(public relations)をなすことがなりたつ。

 行動者なのが主体だ。主体つまり行動者になるようにして、危機の管理の行動を自分からすすんでやって行く。主体としてやって行く。

 お笑い芸人だけが危機の管理ができていないわけではない。そのほかにも危機の管理ができていないものはあって、たとえば政治では与党である自由民主党がある。いまとり沙汰されているうら金のことで、危機の管理ができていないのが自民党だ。ことわざでいう頭かくして尻かくさずのようになっているのが自民党ありさまである。

 外国ではロシアやイスラエルがある。いま戦争をやっているのがそれらの国であり、危機の管理ができていない。世界においてきびしい批判を受けているのがロシアやイスラエルだ。相対として弱いものであるウクライナパレスチナを攻撃しているのである。ロシアはウクライナを攻撃していて、イスラエルパレスチナ(のガザ地区など)を攻撃しているのだ。

 危機の管理なんかやらなくたってよい。そうしたかまえを取ることはできるけど、それはいささか甘いかもしれない。危機の管理なんかやらなくたってよいのだとしてしまうと、社会の関係をなせない。説明の責任(accountability)を十分に果たせないのである。

 めんどうなところがあるのは否定できないのが、危機の管理をやることだ。労力がかかってしまうのはあるけど、それをやらないと、自民党ありさまのようになってしまう。ことわざの頭かくして尻かくさずのようになるのがあり、どのみちお尻は出てしまう。お尻があらわになってしまう。お尻が出てしまうのだから、危機の管理を自分から主体としてやって行って、社会の関係をなしたほうが合理性がある。

 何を見習わないようにするべきなのかがあり、見習うべきではないものとして国内では自民党をあげられる。国外ではロシアやイスラエルをあげられる。それらは危機の管理ができていない。

 お笑い芸人は、見習うべきではないもののまねをしないようにして、自分から主体として危機の管理をやって行ければよかった。社会の関係をなすようにできればよかった。

 いまは情報の技術(information technology)がすごい進んでいるのがあるから、それをくみ入れると、労力がかかってしまうのはあるが、危機の管理を自分から主体としてやって行き、社会の関係をなしていったほうが合理性がある状況になっている。お笑い芸人はその状況をくみ入れたほうが良かったのがある。

 参照文献 『危機を避けられない時代のクライシス・マネジメント』アイアン・ミトロフ 上野正安、大貫功雄(おおぬきいさお)訳 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし) 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし)