中東の紛争と、罪の重さ―主体の罪の重さの、類似性と差異性

 中東で、紛争がおきている。

 争い合っている主体どうしを比べてみると、どういったことが見えてくるだろうか。

 罪の重さを、比べてみる。

 罪を犯しているのだとして、より重い罪を犯している。主体(行動者)どうしを比べてみて、より重い罪を犯しているのであれば、その主体は、より強い理由(a fortiori)によって批判されるべきだろう。

 比較からの議論が、修辞学の議論の型(topos)ではある。

 比べてみると、パレスチナの主体と、イスラエルの主体がいる。パレスチナイスラム原理主義の集団よりも、イスラエルのほうが罪が重い。主体として、イスラエルのほうが、より重い罪を犯しているのがあるかもしれない。

 殺された人の数の、けたがちがう。たしかに、パレスチナイスラム原理主義の主体は、イスラエルの人たちを殺したのがある。パレスチナの主体は、罪を犯したのはあるけど、イスラエルもまた主体として罪をおかしている。いま、罪をおかしているさいちゅうなのが主体としてのイスラエルだろう。

 主体を批判するさいに、より重い罪を犯しているのであれば、その主体は、より強い理由によって批判されることがいる。パレスチナの主体が批判されるのであれば、それよりもより強い理由によって主体としてのイスラエルが批判されることがいるかもしれない。

 罪をおかした主体に、ばつが下される。罪とばつである。この二つは、げんみつに組み合わさっているものではない。

 一つの項(こう)なのが罪であり、もう一つの項なのがばつだ。この二つの項は、もともと別々のものどうしだ。二つの項どうしを結びつければ、罪とばつの組みになる。応報律(おうほうりつ)だ。

 罪とばつのつり合いは、矯正(きょうせい)の正義である。ちょうどよいくらいの罪とばつのつり合いであることがいる。不つり合いになってしまうと、のぞましくない。

 自動で、罪をおかしたらばつが下されるわけではない。罪をおかしても、ばつが下されないことはしばしばある。集団で、下の地位の人だと、少しの罪をおかしても、重めのばつが下されることがある。罪が見逃されづらい。そのいっぽうで、上の地位の人だと、けっこう重い罪をおかしても、ばつが下されない。罪をおかしても、見逃されやすいのだ。

 地位が下なのかそれとも上なのかによって、同じくらいの重さの罪をおかしたとしても、重い罰がくだされたり、ばつが下されなかったりする。見逃されなかったり、見逃されたりする。あつかいにちがいがあるのである。これは、応報律がげんみつではないものであることを示す。罪とばつの二つの項が、もともとは結びつきがないことを表している。必然の結びつきとまでは行かないものである。

 パレスチナイスラム原理主義の主体は、おかした罪の重さでいえば、そこまで軽いものではないだろう。イスラエルの人たちを殺しているのがあるからだ。それと比べてみて、主体としてのイスラエルがおかしている罪は、パレスチナの主体よりも軽いとは見なせそうにない。殺している人の数が、主体としてのイスラエルのほうが多い。多くのパレスチナの人たちが、主体としてのイスラエルによって(直接または間接に)殺されているのは見逃せそうにない。

 参照文献 『罪と罰を考える』渥美東洋(あつみとうよう) 『法哲学入門』長尾龍一 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『日本の刑罰は重いか軽いか』王雲海(おううんかい) 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『国家のエゴ』佐藤優(まさる) 姜尚中(かんさんじゅん) 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし)