お笑いのうら側:お笑い業界の闇と性の加害の問題

 大もののお笑い芸人(男性)が、性の加害をなす。そのうたがいが、週刊誌の報道の記事でとり上げられた。

 男性の大もののお笑い芸人が、女性に性の加害をなした疑いがあるのを、どのように見なせるだろうか。

 お笑いは、人々を笑わせる。人々を楽しませる良いものなのがお笑いだ。お笑いには、信頼が関わる。信頼は価値による。客観とはいえず主観によるものなのが価値だ。主観(相対)の価値の説である。

 関西の芸能の会社に属しているのが、大もののお笑いの芸人だ。会社は、社に属している大もののお笑い芸人をかばう。会社とお笑い芸人とが一体化している。

 たとえ社に属していて、かせぎ頭であるのだとしても、お笑い芸人をつき放すことがあったら良い。社とお笑い芸人とがぴったりと一体化していると、健全であるとは言えそうにない。社とお笑い芸人とのあいだで、少しは距離がとれていたほうが良い。

 会社は共同体(community)だ。どちらかといえば小さめの共同体であり、会社が絶対化されると悪い意味での共同体主義におちいってしまう。会社のあり方を絶対化してしまわないようにしたい。共同体がまちがったことをすることがあるから、ほかのものによって批判されることがいる。国や経済の世界などが共同体を批判することがあってよい。

 良いことは限定化されやすい。悪いことは一般化されがちだ。悪事千里を走る。悪い知らせは広まりやすい(Bad news travels fast.)。お笑い芸人が良いことをやっても限定化されやすい。お笑い芸人が何か悪いことをやったとなったら、それが広まりやすいのである。一般化されやすい。

 どれくらいそのお笑い芸人を信頼できるのかがある。そこまで信頼できるとは言えそうにない。そのお笑い芸人を良しとしている愛好者であれば、すごく信頼できるだろう。とりわけ愛好者でもないのであれば、そこまでお笑い芸人を信頼することはできづらい。みんなが信頼するとは言いがたい。とくに信頼しない人も少なくはないのである。

 みんながそのお笑い芸人を信頼してくれるだろう。みんなが信頼するのにちがいない。ほとんどの人がそのお笑い芸人を信頼するのかと言えば、そうとはなりづらい。みんなが信頼してくれるだろうとする見かたには、甘さがありそうだ。だれからも好かれるようなとんでもない善人や、聖人君子でもないかぎりは、信頼しない人が少なからずおきてくる。

 性の加害のぎわくがあるのがお笑い芸人だが、そのお笑い芸人が属している会社がある。会社は、社会の関係(public relations)や、説明の責任(accountability)をもつ。会社としての社会の責任をもつのがある。

 ぜんめん的に会社がお笑いの芸人をかばってしまうと、会社がはたすべき社会の関係や説明の責任がはたされなくなる。会社は、社としてどういった倫理観を持っているのかを示す。それがいるのがある。説明の責任をはたすことがいるのだとする倫理観を社は示すのがのぞましい。

 週刊誌の記事の内容が、本当なのかうそなのかは、定かとは言えそうにない。週刊誌の記事では、うそが言われることがある。うその記事であることも中にはある。

 反証主義で見てみると、この件での週刊誌の記事の内容が本当なのかうそなのかには、反証の可能性があることがいる。うそを証明できる可能性を持っていなければならない。

 記事の内容が本当(真実)だと見なすのだとしても、その見なし方について、うそを証明できる可能性があることがいる。記事の内容はうそ(虚偽)だと見なすのにしても、その見なし方について、うそを証明できる可能性があることがいる。

 反証の可能性があることからすると、記事の内容が本当だと見なしていても、それはさしあたって(tentative)の見なし方にすぎず、じつは内容はうそだったとなるかもしれない。反証されるかもしれない。その逆に、記事の内容はうそだと見なしていても、それはさしあたっての見なし方にすぎず、じつは内容は本当だったとなるかもしれない。反証される見こみがある。

 二つより以上あるのが正義だ。加害者の正義があり、加害者だとされていてもじつは無実であるかもしれない。被害者の正義もまたあり、被害者のうったえは真実のものであるかもしれない。

 一つとはかぎらず二つより以上あるのが正義だから、むずかしさがおきてしまう。その中で、語用論(pragmatics)によるようにしたい。語句(発言)と送り手との関係によるのが語用論である。

 好意の原理(principle of charity)がある。明らかにうそを言っているとできるのでないかぎり、できるだけ送り手が言っていることを真実であると受けとめるようにする。被害者のうったえを、好意の原理でとらえるようにしたい。

 明らかにうそを言っているとできるのでないのであれば、被害者が言っていることを、できるだけ真実であると受けとめることがあったらよい。そうでないと、一次の被害にくわえてさらに二次の被害がおきかねない。被害者(のうったえ)をかんぜんに否認するのではないようにすることがいる。

 参照文献 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫反証主義』小河原(こがわら)誠 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫(かおる) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『裁判官の人情お言葉集』長嶺超輝(ながみねまさき) 『新版 ダメな議論』飯田泰之(いいだやすゆき) 『ユーモア革命』阿刀田高(あとうだたかし) 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『法律より怖い「会社の掟」 不祥事が続く五つの理由』稲垣重雄