万博で、経済と環境のどちらをより重んじるべきか―環境(気候)の正義の大事さ

 なぜ、むだな木の輪っかを、万博では作るのだろうか。何百億円(三五〇億円)もかけて大きな木の輪っか(木造リング)をなんでわざわざ作るのだろうか。

 大屋根だとされるのが、木の輪っかだ。それを客体(object)として見てみると、意味があるのかどうかが不たしかだ。無意味な客体であるのが、木の輪っかかもしれない。大きくいえば、万博の無意味さを象徴するような客体である。

 行動者なのが主体だ。その相手なのが客体である。木の輪っかは客体であり、それをとらえるのが主体である。ある主体がとらえるところのものであれば、それに意味があることがある。別の主体がとらえるところのものであれば、同じものであったとしても、意味がないことがある。主体の相手としての客体であるからだ。

 いまの時代には、環境の正義が求められるのがある。

 ぜんかいの、一九七〇年のときの大阪の万博では、環境の正義はいまほどには強く求められなかった。環境よりも、経済の成長がより重んじられた。重んじることがなりたったのである。

 こんかいの、二〇二五年の関西と大阪の日本国際博覧会では、前回のときとはちがう。ぜんかいの大阪の万博とのちがいを、明らかに打ち出す。前回とはちがうのだと示す。それがいるのがある。

 ぜんかいと同じだとしてしまうと、あいかわらず環境を軽んじてしまう。環境の正義によらないことになってしまう。環境よりも、経済の成長をうんと重んじるのだとするあり方がとられることになる。

 交通論の、いまとかつてのいまかつて間の交通で見てみたい。時系列の分析で見てみると、前回の一九七〇年の万博のときと同じことは、いまにおいては通じづらい。前回とは、ちがうあり方であることがいる。

 前回とは、ちがいをつけなければならない。前回と同じように、あいかわらず経済の高度な成長を追い求めるのはまずい。自然の環境の危機が深刻さを増しているからである。状況にちがいがおきている。

 もよおしの主体が、大阪府から、国に移った。主体が地域から国に移ったのがあり、そこから見て取れるのは、環境を軽んじるあり方だ。環境の正義をぎせいにしているのが、二〇二五年の大阪の万博だろう。

 環境の正義を重んじて行く。そのためには、もよおしの主体を国がになってはならない。地域から国に、主体を移してはならなかったのである。環境を守るためには、国を中心化してはならない。国を脱中心化しないとならないのである。国の重みを軽くして行く。国ではないほかの主体(非政府組織や非営利組織など)が重みを持つようにして行く。

 木の輪っかが作られるけど、それは役に立つのかどうかがある。木の輪っかそのものの話とはちがってくるけど、あるものが無駄かどうかがある。無駄学からすると、あるものが無駄かどうかは、目的と期間と立ち場の三点から見てみられる。目的や期間や立ち場のちがいによって、あるものが無駄だったり無駄ではなかったりする。

 よい統治(governance)がなされているのかが問われることになるのが、万博がもよおされる大阪府だろう。地域では大阪府であり、また広くは日本の統治のあり方が問われることになる。

 環境を守って行くためには、よい統治がなされていないとならない。もしも、大阪府で環境がこわされていたり、広くは日本で環境がこわされていたりするのであれば、よい統治がなされていないのを示す。

 万博で環境が軽んじられていて、環境がこわされてしまう。環境が悪くなるもよおしなのが万博なのであれば、地域では大阪府の統治が良くないことを示す。広くは日本の国の統治が良くないことを示している。

 どこに問題の所在があるのかといえば、木の輪っかそれそのものや、万博そのものにあるとは言えそうにない。それらではなくて、大阪府の統治のよし悪しや、広くは日本の国の統治のよし悪しがかんじんな点だ。

 統治がよいか悪いかを、きびしく問いかけて行かなければならないのが、万博がなされる大阪府や、広くは日本の国である。環境の正義のために、統治の負のところを見て行く。もよおしの経済の効果とは別に、それがいりそうだ。

 参照文献 『環境 思考のフロンティア』諸富徹(もろとみとおる) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『こうして組織は腐敗する 日本一やさしいガバナンス入門書』中島隆信 『無駄学』西成活裕(にしなりかつひろ) 『変われない組織は亡(ほろ)びる』二宮清純(にのみやせいじゅん) 河野太郎社会的ジレンマ 「環境破壊」から「いじめ」まで』山岸俊男カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし)