日本の税金を、日本の外に使うべきではないのか―日本の内を優先させて、外は軽んじるべきか

 国の、内と外がある。内を優先して、外はそのあとにするべきなのだろうか。

 国は、体系(system)だ。ふつうだったら、体系の内を優先して行く。外をどうするのかは、そのあとの話だ。外は二の次だ。

 日本にやって来た外国人は、内ではなくて、外の人たちだ。外の人たちである外国人を、もっとも優先させるわけには行かない。日本の国は、そうしたあり方をとっている。

 いちばんに内を優先させるのは、優先の順位(priority)としてふさわしいとは必ずしも言い切れそうにない。

 いっけんすると、優先の順位のもち方として、内をもっとも優先させて、外はそのあとにするのは、理にかなっていそうだ。日本の国の税金の使い方として、理にかなっていそうだ。

 内ではなくて、外のほうを優先させる。内よりも外をより優先させる。ばあいによっては、それがいることがある。困っている人たちは、内であるよりも、外のほうが多い。外に困っている人たちが多いから、日本が(内よりも)外を助けるようにするのは、理にかなっているところがある。

 外であるよりも、内を重んじているのが日本の国だけど、そこには疑問符がつく。外よりも内としているのがあるけど、それは見かけだけになっている。見かけだけになっているのは、分け方が大づかみすぎるからだ。

 外よりも内、とするのだと、分け方が大ざっぱすぎる。もっと外についてを細かく見て行くことがいる。外で、すごい困っている外国人や、すごい苦しんでいる外国人が中にはいるから、そういう人たちは、日本ができるだけ救ったほうがよい。

 大ざっぱにではなくて、細かく外についてを見てみると、外の中には、内よりも優先の順位がより高い人たちが含まれている。

 日本の国のやり方は、包括として、外を大ざっぱにとらえているものだろう。外について、分析できていない。包括で、森の全体みたいなとらえ方を、外についてしているのだ。

 分析のやり方で、外をとらえてみると、外の中には、内よりもより優先されるべき人たちがいる。すごい困っていたり、すごい苦しんでいたりする人たちが、外の中には含まれているから、そうした人たち(外国人)を、日本が救うことが求められている。

 包括によって、森の全体を、日本が救う。それだと、日本の手にあまるかもしれない。包括によって、森の全体として、外よりも内を重んじるべきかといえば、そうとは言い切れそうにない。

 内についてもきちんと分析するべきだし、外についてもきちんと分析をするべきだ。包括で、すごいばく然としたとらえ方を日本はしていそうなのがあり、内についても、外についても、そのどちらについても、きちんとした分析が欠けてしまっている。

 森の全体として、内を丸ごと重んじるべきかといえば、そうとは言えそうにない。日本は、すごい豊かなところがあり、豊かすぎるところがある。あるところに、富がすごいかたよっているのが日本の内にはある。日本の内をすべて等しく重んじるべきだとはいえず、内よりも外のほうをより重んじるべきところがある。

 のどの乾きでいえば、日本の内が丸ごとのどがからからだとは言えそうにない。内よりも外のほうが、すごいのどがからからなのがあるとすれば、内よりも外にたいして水を供給するべきだ。

 日本は水をけっこう持っている。外にすごいのどがからからな人たちがいて、日本は水を供給できる。それなのに、いっさい水を供給しない。

 のどの乾きでいえば、水の供給のし方がおかしいのが日本にはあって、それはなぜなのかといえば、包括で内と外をとらえてしまっているせいであり、分析ができていないからだろう。外に水を供給せよといったことであるよりも(それもいるけど)、日本はもっと(内や外を)しっかりと分析をするべきだ。

 参照文献 『木を見る西洋人 森を見る東洋人―思考の違いはいかにして生まれるか』リチャード・E・ニスベット 村本由紀子訳 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『目のつけどころ(が悪ければ、論理力も地頭力も、何の役にも立ちません。)』山田真哉(しんや) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『世界「比較貧困学」入門 日本はほんとうに恵まれているのか』石井光太(こうた) 『難民 exile 思考のフロンティア』市野川容孝(いちのかわやすたか) 小森陽一