日本にやって来た外国人と、認識することの重要さ―認識と、不幸や不遇

 日本にやって来た外国人が、苦しむ。困る。それを助ける支援者がいる。それらについてを、どのように見なすことができるだろうか。

 支援者は、外国人を助けることによって、利益を得ている。利益を得るために助けているのだといったことが言われている。

 じっさいには、助けてももうけにならない。もうかるためだったら、もっとちがうことをやっている。もっともうかることが他に色々にあるという。

 主体なのが、日本にやって来た外国人だ。行動者なのが主体であり、その主体に当たる外国人が、苦しんだり困ったりする。不幸におちいる。その認識は(主体による)主観だ。

 どこが大切な点なのかといえば、主体がもつ認識だ。主体がもつ認識として、その主体が自分は不幸なのだとおもう。その不幸の意識は、見のがすことができそうにない。

 不幸におちいっている外国人がいて、それを何とか救おうとする支援者があらわれる。その支援者は、外国人の主観に、共感をもつ。外国人の主観を共有することになる。お互いの枠組み(framework)を、橋わたしして、交通し合う。それができていることをしめす。お互いに交通し合うのは、交通の様態(mode)では、双交通だ。

 支援者は、不幸におちいっている外国人を何とか救おうとして、色々なことをやることになる。客体(相手)にたいする主体であるのが支援者だが、その支援者の主観は、大切な意味あいをもっているのがあり、それをないがしろにはできそうにない。日本の国の中で、不幸におちいっている人(外国人)がいて、その人をきちんと認識することができているからだ。双交通で交通し合えている。

 不幸におちいっている客体がいて、その客体を見て見ぬふりをするのではなくて、そうした客体がいることを認知して行く。客体を否認するのではなくて、認知しているところに、決して小さくはない意味あいがある。

 日本の国は、主体として、日本にやって来た外国人を、何とかして追い出そうとしている。できるだけ日本に外国人が来ないようにして、日本の外へ排除して行く。やっかい者は、日本に来てほしくない。

 日本の国が主体としてやっていることは、認識につながっていない。なんで認識につながっていないかというと、日本にやって来た外国人の不幸をすくい取っていないからである。その外国人が不幸なのは、あくまでも自己の責任にすぎないといったあしらい方をしているものだろう。

 主体どうしを比べてみると、日本の国と支援者とでは、日本の国は認識ができていないが、支援者は認識ができている。不幸をかかえている人が日本の国の中にいて、その人の不幸の意識を十分にくみ取って受けとめるのでないと、正しい行動をなしづらい。

 日本の国は、認識者とはいえないけど、支援者は、(行動者であるのとともに)認識者でもある。不幸の意識とつながっているのが、ものを認識することであり、日本の国の中で不幸におちいっている人たちを、否認しないようにして行きたい。そうでないと、日本の国のことを認識することができづらい。

 日本人さえ幸福であれば、あとはどうだってよいのだとは必ずしも言えそうにない。日本の国の中に、不幸におちいっている外国人がいる中で、日本人だけが幸福になることはなりたちそうにない。

 けっして遠くはないところに、不幸におちいっている外国人がいるのに、それを無いことにして、日本人だけが幸福になることはできづらいものだろう。それができるのだとしても、それはどちらかと言えばうその幸福であり、まちがった思想の傾向(ideology)におちいっているところがある。

 まちがった思想の傾向は、現実とはずれているものだから、批判されることがあったほうがよい。批判によって、本質がぎんみされたほうがよい。ほんとうまたはまことの幸福といえるのかどうかや、うその幸福ではないかどうかを、批判によって確かめるようにして行きたい。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『〈在日〉という根拠』竹田青嗣(せいじ)