ヒトラーに例えることと、構築主義―善人として美化する構築と、悪人として否定する構築

 ヒトラーを思いおこす。ヒトラーに人を例えたことで、言い争いがおきている。

 ヒトラーに例えられたのが、野党である日本維新の会の関係者だ。維新の会は、例えたことは国際法や国際的に許されないことだと言っている。それで例えた人である野党の立憲民主党菅直人元首相に抗議している。

 悪い人物なのがヒトラーだが、それに例えることはよくないことなのだろうか。それについてを構築主義(constructionism)の点から見てみたい。

 たしかに、維新の会が言っているように、ヒトラーに例えるのは、一方的に決めつけているところがないではない。例えるのは、優位に立つ主体であり、例えられるのは、劣位に立つ客体だ。

 主体が客体を構築するのがあり、その構築は、絶対のものだとは言えそうにない。構築するのは、表象(representation)することであり、直接の現前(presentation)ではない。

 例えることで、構築することになり、それは表象だから、直接の現前とはずれることになる。例えることによって構築したものを、ちがうふうに脱構築(deconstruction)することがあってよいことだろう。

 いっさい例えてはならないのかといえば、それはいささか言いすぎであり、一つの試みとしてはあってもよいものだろう。一つの試し(tentative)の視点として、例えることによる構築があってもよいのがあり、それが絶対化されなければ許容されてもよいだろう。

 例えることによって構築することのまずさとしては、交通のあり方でいえば、一方向の単交通になってしまう点だ。例える主体は能動で、例えられる客体は受動になり、客体は逆方向の単交通になる。

 一方向になってしまうのがあるし、また直接の現前とはずれた表象になってしまうのがあるから、例えることによる構築にはまずさがあると言えなくはない。そのまずさは、たんに例えることだけにあるのではなくて、政治の権力の批判にも関わってくるものだ。

 政治家は、国民を例えたものとしてあると言える。国民を例えたものである政治家は、国民とはずれてしまっている。政治家は国民の表象であり、直接の現前としての国民とはちがいがおきる。

 国の政治家だったのがヒトラーであり、ヒトラーへの批判は、表象への批判である。ヒトラーに例えることは、それそのものが悪いのだとは言えそうにない。視点を変えて見て、例えることがもつまずさを見るようにして行きたい。例えることつまり表象(つまり政治家)がもつ危険性を見て行きたい。

 例えるのは、構築することになるから、固定化させないようにして、脱構築して行くようにする。維新の関係者が、ヒトラーに例えられたのであれば、まさにヒトラーそのものだといったように基礎づけたりしたて上げたりするのだとやりすぎだろう。そこを脱構築するようにして、ちがう面も見て行くようにする。

 何がよくないのかと言えば、ヒトラーに例えるのだとして、それそのものがよくないのであるよりは、一面の見かたにおちいってしまうおそれがある点だ。あくまでも一つの構築のしかたであるのにとどまるから、それを固定化しないようにして、脱構築して行く。ほかの面も見るようにして行く。基礎づけたりしたて上げたりしないようにする。

 構築することと、その構築を固定化させて絶対化することを、分けて見るようにしたい。構築するのは、森で言えば、一つの木のようなものであり、その対象の全ぼうではなくて部分にとどまるものだろう。部分の構築は、部分としてはそういった要素があるかもしれないから、部分としてはなりたたなくはない。部分に当たる、一斑(いっぱん)を見て、全体である全豹(ぜんぴょう)を卜(ぼく)するといったことになると、行きすぎることになることがある。

 どちらかといえば、いまの日本の国の政治では、部分の構築がされなさすぎていて、批判がされなさすぎている。構築が許容されなくなってしまっている。そこにまずさがある。構築することと、その構築が固定化されて絶対化されることとが、ごちゃ混ぜにされていて、たんに構築することまでが悪いことだとされている。

 部分の構築をすることそのものがいけないといったことになっていて、その結果として、おかしな構築のされ方がおきてしまっている。かえって、構築の固定化や絶対化がおきてしまっていて、脱構築されなくなってしまっている。国の政治家のたいこ持ちや茶坊主がテレビの世界などにははびこっていて、国の政治家を上にもち上げる構築が行なわれすぎている。もっと政治の権力へ批判を投げかけて行く構築がどんどん行なわれないとならない。

 ヒトラーに例えることではなくて、その逆に、国の政治家を善人に例える構築が、日本の国の政治ではおきてしまっている。ヒトラーに例えることとは逆の、善人として国の政治家を構築することがおきていて、その構築が固定化や絶対化されている。それを改めるようにして、脱構築をどんどんやって行くべきだ。一面として、国の政治家を善人そのものとして構築したり、または悪人そのものとして構築したりするのを避けて、善と悪の二面性をもつものとして見て行くべきだろう。

 国の政治家に二面性がある中で、日本では、あたかも善人そのものであるかのような一面による見かたがおきている。二面性のつり合いが大きく崩れていて、不つり合いになっている。二面性のつり合いをとって行くためには、政治の権力がもっとどんどん批判されないとならない。批判をどんどんやって行って、それではじめてつり合いがとれるのがあり、いまのところは、そうとうに不つり合いになっている。善の一面しか見られていない。悪の一面がとり落とされている。

 参照文献 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『ポリティカル・サイエンス事始め』伊藤光利編 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき)