日本にいる外国人と、帰属と個性―帰属を重んじるべきか、個性を重んじるべきか

 外国人が、施設の中で、死ぬことが日本ではおきている。外国人を責めることが、日本の国の議会(国会)では言われているが、それはふさわしいことなのだろうか。

 帰属(identity)と個性(personality)の二つの点でそのことを見てみたい。

 帰属は、自己の同定であり、自分が何ものなのかがわかっていることだ。日本人だったら、自分は日本人なのだと、自分のことを見なす。男性だったら、自分は男性なのだと意識する。そういったことである。

 帰属をそうとうに大きく重んじているのが日本だろう。それを重んじすぎていて、個性を否定してしまっている。

 その人がどこの国に属しているのかがある。それを重んじすぎると、帰属に重みを持たせることになり、個性が否定されがちだ。

 日本にやって来た外国人を、帰属によって見てしまうと、外国人の排斥につながりやすい。自分がもともといた国に帰れとか、もともといた国に帰るべきだといったことになる。

 日本人がいるのだとしても、その人が帰属を重んじていることもあれば、個性を重んじていることもある。帰属を重んじるのは、二つの自由がある中の、への自由(積極の自由)だろう。個性を重んじるのは、からの自由であり、消極の自由だ。何々への自由と、何々からの自由である。

 個性を否定して、帰属を重んじているのが日本だから、日本人による積極の自由しかよしとしていない。日本人が、積極の自由をよしとするのは認めているけど、消極の自由は認めていない。日本人であれば、日本からの自由が、消極の自由だ。日本人による、日本からの自由は、その人(その日本人)が個性を重んじているのをしめす。

 帰属を重んじすぎないようにして、個性をよしとするようにすれば、たとえ日本人であったとしても、日本からの自由が認められることになる。日本にいながら(たとえ日本から離れるのではないとしても)、日本からの自由をもつ。

 外国人だったら、もともとその人が属していた国があるけど、そのもともとの国にたいして、からの自由をもつ。からの自由である、消極の自由は、個性に当たるものであり、それによって、もともとの国から離れて、日本にやって来た。そういった外国人もいるだろう。

 帰属を強めすぎないで、それを弱めるようにしてみると、個性を重んじることがいることが浮かび上がってくる。国から離れてよいのがあり、そうであったほうが、自由の度合いが増す。日本人のばあいだったら、たとえ日本人であったとしても、日本への自由(だけ)ではなくて、日本からの自由によることができたほうが、より自由になれる。

 日本人であったとしても、必ずしも日本の国がその人(その日本人)を助けてくれるとはかぎらず、日本の国から見捨てられてしまう。見放されてしまう。そういったことも、少なくないだろう。日本の国は、一人ひとりの日本人にていねいに思いをかけているわけではない。

 日本の国が、すべての日本人をくまなく助けてくれるとはかぎらないから、からの自由である消極の自由があったほうがよい。個性をよしとして、日本の国のことをどんどん批判して行きたい(何から何まで批判することがいるわけではないが)。

 参照文献 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫憲法が変わっても戦争にならない?』高橋哲哉斎藤貴男編著 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『半日の客 一夜の友』丸谷才一 山崎正和 『「ネコ型」人間の時代 直感こそ AI に勝る』太田肇(はじめ)