ロシアとウクライナの戦争と、戦争と性の関わり―性と自由

 戦争において、性(gender)のことが関わっているのをどのように見られるだろうか。

 ロシアとウクライナのあいだで戦争が行なわれていて、そこでは性の階層(class)の格差があることがわかる。

 性の階層の格差では、男性が戦う性とされているのがある。それを批判してみたい。

 男性が戦う性だとされていて、男性が戦争を引きおこしているのがある。そこに女性が巻きこまれているところがある。巻きぞえをくらう。

 どの性の階層に属するのかでは、男性か女性かがある。男性の性の階層に属するのであれば、戦争に参加しなければならない。戦争に参加して、兵士として戦わないとならない。そのあり方にはやばんさがある。

 性においては、性への自由と、性からの自由があるのがよい。これは、学者の赤川学氏が言っていることである。

 男性の性の階層に属しているのだとしても、そこに帰属するだけではなくて、そこから脱することができればよい。そうすれば、戦争がおきても、男性であるからといって戦争に参加して兵士として戦わなくてすむ。

 性への自由や性からの自由があれば、男性の性であれば、男性の性への帰属による自己同一性(identity)だけではなくて、そこから脱するような個性や人格(personality)のあり方をとれる。

 男性や女性の性の階層への帰属によりすぎるのは、性への自由や性からの自由がない。帰属ではなくて、個性や人格が重んじられるのであれば、性への自由や性からの自由がある。

 戦争をやるためには、帰属によるあり方によることがいる。個性や人格を否定する。国への帰属や、性の階層への帰属がとられることになる。どこの国に帰属しているのかや、どの性の階層に帰属しているのかが重みをもつ。帰属から脱することが許されない。自由がないあり方だ。

 国も性も、どちらもが自然なものではなくて、作られたものだ。人為や人工の構築性をもつ。固定化されているようになっていても、国も性も、どちらもが可変性をもつ。

 逆から見てみれば、たとえ可変性をもっているのだとしても、固定化されているようになっているところがあるのが国や性だ。性においては、文化の性(gender)であるのがあるから、構築性があり、変えられる可能性をもつ。

 性では、男性にだけできて女性にはできないことは、いまはあまりないものだろう。かつてよりもいまは、男性と女性の体格や体力のちがいなどが小さくなっている。比べてみると、男性よりも女性のほうが能力として優れているところはいろいろに多い。

 性のあいだの境界の線を見てみると、男性と女性のあいだに引かれている分類の線が揺らいでいる。はっきりと線を引けなくなっている。どちらかの性にきっちりと分けられるのであるよりは、度合いやていどによるのがあり、どのていど男性なのかや女性なのかといったらしさの量のちがいによる。離散(digital)であるよりは連続性(analog)がある。

 構築性があるのが性だから、性への自由や性からの自由があったほうがよい。それが許されないと、個人の個性や人格が否定されることになり、性の階層への帰属が重みを持つことになる。帰属が重みをもってしまうと、国や性に帰属することが絶対化されて、戦争がおきやすくなる。戦争がおきたさいに、それを止めることができづらい。

 参照文献 『構築主義を再構築する』赤川学構築主義とは何か』上野千鶴子編 『半日の客 一夜の友』丸谷才一 山崎正和 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『ジェンダーセクシュアリティ 思考のフロンティア』田崎英明