なぜ、施設の中で、外国人が死ぬことがおきたのだろうか。その現象はなぜおきたのだろうか。
外国人が、入国の管理の施設の中で死んでしまったのは、外国人のせいだった。日本の国の議会(国会)ではそう言われている。その外国人や、支援していた支援者が悪い。
うそをついて、病気でもないのに、病気なのだと、その外国人が言っていた。また、ハンガーストライキをやっていて、それで死ぬことになったのだとも言われている。
病気だとうそをついていたことについては、かりにそうなのだとしても、それそのものによって死ぬことはない。病気だとうそをつくことそのものでは、人は死なないのだとの反論が言われていた。
外国人が病気だとうそをついたことや、ハンガーストライキをやっていたのは、事実なのではない。そういった事実はないけど、可能性は否定することができない。可能性はあるのだというのである。
施設の中で、外国人が死ぬことがおきたのは、時制でいえば過去形だ。すでにおきてしまった現象だ。もう結果が出てしまったのである。
結果が出ていることについて、それがなぜおきたのかがある。結果から、原因をさかのぼることになる。原因と結果は、因果の関係であり、科学によるものだ。
病気だとうそをついたり、ハンガーストライキをやったりしていたから、その外国人が死んでしまったのだとするのは、そういった原因と結果の組みで見ることだ。
原因と結果の組みは、線(linear)によるものであり、物語だ。そうとうにげんみつにしっかりとしたものなのであれば、科学によるといえて、大きな物語だ。
かなりしっかりと見て行くのでないと、原因と結果をまちがって組み合わせてしまう。原因と結果は、それぞれが別々のものだ。それらを組み合わせるさいに、まちがいがおきやすい。非科学になりやすい。まちがってしまうと、小さな物語になってしまう。
事実ではないとしても、その可能性は否定できないといったさいに、その外国人が病気だとうそをついたりハンガーストライキをやったりしていたことが本当にあったことなのかどうかは重要な点だ。
本当にあったことでなければ、それを原因とすることはできない。無かったことを、原因に当てはめることはできないから、あったことを持ち出さないとならない。それが最低の条件である。
かりにあったことであったとしても、まちがって原因ではないのに原因に当てはめてしまうことがしばしばある。無かったことであれば、それを原因に持ち出すのは適していない。無かったことは、原因にならない。
可能性は、それが無い(無かった)こともありえるから、そこをとり落とさないようにしたい。
もうとり返しがつかないことなのが、外国人が死んでしまったことだ。すでに結果が出てしまっていて、現象がおきてしまっている。これは必然性の次元のものだ。
死んでしまった人を、生き返らせることはできない。すでに死んでしまった人は、必然性の次元によっているから、生きているかもしれないし、死んでいるかもしれない、とはいえず、どちらかでしかない(生きているかもしくは死んでいるかの二つに一つだ)。
なんでその現象がおきたのかは、原因に当たるものだけど、現象の原因をさぐって行くさいには、深くまで見て行かないとならない。いろいろな要因があってその現象がおきたのがあり、それらの要因を体系(system)として分析して行く。
もれなくだぶりなくの MECE(相互性 mutually、重複しない exclusive、全体性 collectively、漏れなし exhaustive)で見て行く。なんで外国人が死ぬことがおきたのかの、要因に当たることを、もれなくだぶりなく見て行かないと、とり落としがおきてしまう。
なぜなぜ五回といったように、民間のトヨタ自動車で行なわれているような、なぜの問いかけを何回もくり返す。そういうふうにして、深くまで見ていって、真の要因をさぐり出す。ほり下げて行くようにすることがいる。
たしかに言えることは、外国人が死ぬことがおきてしまったことだ。それは必然性の次元のものだから、まずまちがいがないことであり、そのたしかなことから出発するようにしたい。
必然性の次元にあたる、たしかと言えることがあるから、そこから出発するようにする。それをもとにして、そのことがなぜおきたのかを見て行く。たしかといえることをもとにするのではなくて、不たしかなことをもとにしてしまうと、土台がぐらぐらだ。土台にあたる根拠が不たしかで弱いと、独断と偏見がおきやすい。
外国人が死ぬことがおきたのは、結果であり、原因よりもたしからしさが高い。原因は結果よりも不たしかなのがあるから、原因から結果への線の物語を作ってしまうと、まちがいがおきかねない。
原因から結果への流れとは逆に、結果から原因をさかのぼるようにして、原因をしんちょうにていねいに見て行かないと、非科学になってしまう。なぜの問いかけを何回もくり返すようにして、そうとうに深くまでほり下げて見て行くようにしないと、浅い見かたになり、小さな物語になる。
参照文献 『「科学的思考」のレッスン 学校で教えてくれないサイエンス』戸田山和久 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『細野真宏の数学嫌いでも「数学的思考力」が飛躍的に身に付く本!』細野真宏 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『考える技術』大前研一 『トヨタ式「スピード問題解決」』若松義人 『論理的に考えること』山下正男 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫(かおる) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦