日本はなぜ(施設の中で)外国人に暴力をふるうのか―外国人の排除と、おもてなし(hospitality)

 なぜ、日本にやってきた外国人が、いく人も殺されているのだろうか。

 外国人が入れられる施設の中で、外国人に暴力がふるわれることがおきている。それで死んでしまった外国人もいる。

 国家主義(nationalism)がわざわいしている。それによって、施設の中で外国人が死ぬことが日本ではおきている。

 人間か、もしくは非人間かを分けることになるのが国家主義だ。

 日本人は人間だとされるけど、外国人は非人間だとされやすい。

 非人間であるのが外国人だから、人間あつかいしなくてもよい。施設の中ではそうなっていて、外国人に暴力をふるうことがおきてしまっている。

 外国人を人間あつかいしないのがあるけど、それをきちんと改めようとしていないのが日本だ。なぜきちんと改めようとしないのかといえば、国家主義が根づよいからである。

 政党でいえば、国家主義にたいして批判をしているのが、日本共産党だろう。反国家主義のあり方だ。

 与党である自由民主党は、国家主義がとても強いから、外国人にたいするあつかいをきちんと改めようとしていない。外国人を非人間あつかいするのをよしとしている。日本人は人間あつかいするけど、外国人は人間あつかいしない。

 日本人と同じように、外国人が人間としてあつかわれるようにするためには、国家主義によらないようにすることがいる。反国家主義にすることがいる。国家主義のままだと、人間か非人間かを分けて、その二つのあいだに太い分断の線を引いてしまう。

 反転の可能性の試しをしてみると、もしも自分が外国人であったとすれば、非人間のあつかいをしてほしくない。人間あつかいされないのは、とうてい受け入れることができない。

 立ち場を反転させてみる、普遍化の可能性の試しをしてみられる。かりに自分が外国人であるとすれば、日本人は人間あつかいされるのに、外国人はそうされないのは許せるものではない。立ち場を変えてみて、立ち場を反転させてみるとそうできるのがあり、国家主義によらないようにすることがいることになる。

 もしも自分が助けを求めて日本にやって来た外国人であるとすれば、日本がやさしく温かく救いの手をさしのべてほしい。温かい客むかえ(hospitality)をしてほしいし、よき歓待(かんたい)をしてほしいのがある。人情をともなった、温かい義理によって、助けを求めて外からやって来た外国人である自分を救ってほしいものである。外国人である自分が困っているときに、日本が助けてくれたら、日本は真の友だ(A friend in need is a friend indeed.)。

 外からやって来た外国人に特権を与えよとするのならやりすぎになるかもしれないが、権利を与える(認める)ことは、温かい義理として日本がするべきことだろう。人間としての権利である、人権を認めなければならない。人権を認めるためには、国家主義によらないようにしないとならない。

 難民には、難をのがれるために、避難してきた避難民をふくむ。ほかには、流れてやって来た流難民や、苦しみに耐えつづけている耐難民もいる。それらのうちで、逃げてやって来た避難民を、日本は温かく客むかえするべきだろう。

 避難民だけではなくて、流難民や耐難民も、客むかえするようにしたい。いろいろな難をかかえて生きているのが難民であり、難をかかえている人たちを客むかえして行く。日本人であっても、外国人であっても、いろいろな難をかかえている難民がいる。日本はできるだけ難民を客むかえするべきであり、そのためには国家主義によらないようにするべきである。

 参照文献 『難民 exile 思考のフロンティア』市野川容孝(いちのかわやすたか) 小森陽一ナショナリズム(思考のフロンティア)』姜尚中(かんさんじゅん) 「排除と差別 正義の倫理に向けて」(「部落解放」No.四三五 一九九八年三月)今村仁司 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『義理 一語の辞典』源了圓(みなもとりょうえん) 『ぼくたちの倫理学教室』E・トゥーゲンハット A・M・ビクーニャ C・ロペス 鈴木崇夫(たかお)訳 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし)