差別と、日本の国柄―差別をなくすことは、日本の国柄には合わないのか

 差別をなくす。それを無くすようにするべきなのかどうかは、日本の中で対立を生むことがらだ。対立を生むようなことをとり上げるのは、日本の国柄には合わない。与党の政治家はそう言っていた。

 対立を生むようなことは、日本の国柄に合わないから、とり上げるべきではないのだろうか。

 差別をなくすべきだとするのは、そういう規則をよしとすることだ。規則の点で見てみると、大前提の価値観として、そもそも差別をするべきではないのだとすることになる。これは(すべての人にといったら言いすぎかもしれないが)多くの人に良しとしてもらうことができるものだろう。だれでも、自分が差別をされたくはないからだ。

 与党である自由民主党の政治家が言っているのは、これもまた規則だ。大前提の価値観として、そもそも対立を生むようなことはとり上げるべきではない。日本の国柄に合わないことはとり上げるべきではない。

 規則として見てみると、対立を生むことであっても、とり上げられていることはいっぱいある。規則としては、例外がたくさんある。反例がいっぱいあるから、規則としてははたんしているものだと言えるだろう。例外が常態化しているからである。

 はっきりと定めることができづらいのが日本の国柄だろう。多義またはあいまいさをまぬがれないものだから、虚偽である。

 野菜の玉ねぎのようなものが日本の国であり、皮をむいて行くと何もなくなってしまう。実体のある自己の同定(identity)を持っていない。無や空(くう)であるのが日本の国だろう。

 共同の幻想や想像の共同体なのが国だ。体系(system)としての国は実体としては無い。国どうしの関係の中の結節の点なのが国だ。関係主義からはそうできる。関係の第一次性だ。国は無いけど、法の決まりはある。国があるのだとするのは擬人化の思考だ。

 どんな国であったとしても、まったく矛盾がない無矛盾な国はありえづらい。国があるのなら、そこに矛盾があると言ってよい。日本にも、色々な矛盾があり、色々な対立をかかえている。

 差別をなくすことでいえば、すべての日本人(日本の国の中にいる人たち)が、差別をなくすべきだとする大前提の価値観をもっていれば、矛盾はおきづらい。そうではなくて、差別をなくすべきではないとする人も中にはいるのがあり、そこから日本の国の中に矛盾がおきることになる。

 みんなが同じ動機づけ(incentive)を持っているわけではなくて、それぞれがちがう動機づけを持っているから、国の中に矛盾がおきることになる。無くすべきものを、無くすことができないのは、動機づけがそれぞれの人でちがうからだ。

 西洋の哲学の弁証法(dialectic)では、そのままの日本のありよう(日本の国柄)は正だ。正はそのままのありようだけど、それに対抗するものがおきてくる。反だ。

 そのままでよいのかといえば、そうとも言い切れなくて、それに対抗するものである反がおきてくる。そのさい、正つまり合とはできづらい。反を抜きにしてしまうのはまずい。反をくみ入れて、正と反によって合の止揚(aufheben)にもって行きたい。うまく合の止揚にもって行ければ、問題がうまく片づくことになる。

 差別をなくすことであれば、それをいっきょにはなくせないかもしれないが、大前提の価値観として、それをなくすことではみんなが一致する、となればよい。規則や規範として、差別をなくすべきだとすることではみんなが合意する。できるだけ、規則にもとづくようにして、規則を大事にして行きたい。とりわけ、いまの日本の国の憲法が大事だとしたい。

 参照文献 『憲法という希望』木村草太(そうた) 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『社会的ジレンマ 「環境破壊」から「いじめ」まで』山岸俊男 『人を動かす質問力』谷原誠 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信リヴァイアサン 近代国家の思想と歴史』長尾龍一現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『差別と日本人』辛淑玉(しんすご) 野中広務(ひろむ)