(元)首相への、暴力―暴力の現象と、その現象の原因や要因

 首相が、排除される。元首相と、いまの首相に、暴力がふるわれた。そうしたできごとがおきた。

 元首相だった安倍晋三氏は、排除されて、殺された。その犯人は、逮捕されている。いまの首相である岸田文雄首相にも、暴力がふるわれて、爆弾らしきものが投げつけられることがおきた。

 元をふくめた首相(元首相と現首相)に、暴力がふるわれることがおきたのを、どのようにとらえることができるだろうか。

 政治家に暴力をふるうのは、負のできごとだ。それを現象としてみれば、批判することがいる。政治家に暴力をふるうことは、あってはならないことだから、批判をしないとならない。

 頭をかち割る。それが暴力だ。それよりも、数を割る。頭を割るかわりに数を割るのが民主主義だ。作家のエリアス・カネッティ氏はそういう。頭を割るのを避けられるのが民主主義だ。

 現象として、政治家に暴力がふるわれたのはよいことではない。よいことではないから、批判がいる。それをやるだけではなくて、もう一つは、視点についてのことをあげられる。

 視点では、どういう要因によって、政治家に暴力がふるわれることがおきたのかを見て行く。一つの要因だけではなくて、色々な要因があることによって、政治家に暴力がふるわれることがおきた。

 安倍元首相や、岸田首相に、暴力がふるわれたのを、分析して行く。日本では、ものごとを体系(system)として分析することが弱い。

 体系とは、関係し合うことがらが集まったものだ。負のできごとだったら、それがおきたわけがある。たった一つだけではなくて、いくつもの要因をもれなく見て行く。そういうふうに、体系として分析して行くのが日本では弱くて、なされないことが多いから、それをやることがいる。

 現象としてたんにおきたできごとが悪いものだったからそれを批判する。そうしたことだけでは十分だとはいえそうにない。それをやるのもいるけど、それだけではなくて、視点をくみ入れるようにして、それによってとらえて行く。

 できごとに関わる主体としては、暴力をふるわれた安倍元首相や岸田首相がいる。安倍元首相の視点があり、岸田首相の視点もある。主体としての政治家の視点があり、それだけではなくて、暴力をふるった犯人の視点もある。主体としての犯人の視点だ。

 固定化させるのではなくて、視点を動かしてみると、暴力をふるわれた政治家の視点もあれば、犯人の視点もあるので、どういう視点からとらえるかによってちがってくる。主体がちがえば、視点もちがってくる。

 なんで政治家に暴力がふるわれるできごとがおきたのかでは、それを体系として分析することができるので、それをやるようにして行きたい。もれなくだぶりなくのMECE(相互性 mutually、重複しない exclusive、全体性 collectively、漏れなし exhaustive)によって見て行く。

 いろいろな要因があげられる中で、日本の国の政治では、不正や悪が横行してしまっているのは無視できそうにない。すごい正しいことが政治で行なわれていて、すごい善人の政治家が上に立っていて、すごい善の政治がなされているのだとはいいがたい。悪の力によってしまっているのが日本の政治であり、きびしく見れば、かなり退廃(decadence)してしまっている。

 政治家の理性の退廃はそうとうに深いのがあり、それがしんこくだ。政治でおきている退廃のところは、軽んじたり見すごしたりすることができそうにない。理性の退廃とは、数でものごとをおし進めるやり方だ。数が多いのが正しいとか、(数が多いことによって)勝ったものが正しいのだとしてしまっているから、政治で退廃が深まっている。

 数が多くて勝っているのだとはいっても、日本の政治は、よくないカルト(cult)の宗教にのっとられていて、カルトの力を借りて勝っているのだから、そこの悪さも無視することができそうにない。

 参照文献 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『政治的殺人 テロリズムの周辺』長尾龍一 『悪の力』姜尚中(かんさんじゅん) 『社会的排除 参加の欠如・不確かな帰属』岩田正美 『考える技術』大前研一