抑止と、抑制―抑制(と均衡)をかけて行く動機づけ(incentive)が弱すぎる

 国を守って行く。国が抑止の力をもつ。そのさいの、抑止とはいったいどういったものなのか。それがとり上げられていた。

 国を守って行くために、抑止を高めて行く。それがいるのが言われているけど、それとはちがい、抑制をとり上げてみたい。

 抑止と似ているのが抑制だけど、その二つを分けてみると、抑制をとり落とさないようにすることがいるのがわかる。

 抑止を抑制して行く。そういったこともいる。まちがった抑止なのであれば、それを抑制することがいる。まちがった抑止とは、抑止にならない抑止だ。いっけんすると抑止になるようでいて、じっさいにはそれに役に立たず、逆に働いてしまうようなものである。

 かつての日本の国をふり返ってみると、国がほろぶところまで行ってしまったのがある。国が戦争につき進んで行って、国がはめつするところまでいった。なんで国が悪い方向に向かっていったのかといえば、抑制が欠けていたからである。抑制がかからなかったので、国がどんどん悪い方向に向かって行くのを止められなかった。

 自由主義(liberalism)があれば、抑制と均衡(checks and balances)をかけられる。かつての日本は、自由主義によっていなかったから、抑制と均衡がかかっていなかった。それで国が悪い方向につき進んでいったのである。

 かつての日本では、抑制がかかっていなかったけど、いまの日本もそれと同じようになっている。抑制がかかっていなくて、国の政治が右傾化していっている。軍備の拡張をおし進めていっている。

 政治の政党でいえば、共産党なんかは、抑制をかけることを言ったりやったりしている。そこが日本共産党のよいところだけど、たぜいにぶぜいのようになっている。たぜいにぶぜいになってしまっているのは、かつての日本のありようと同じだろう。

 かつての日本でも、抑制をかけることを言ったりやったりしていた人たちがいなかったわけではなかったけど、たぜいにぶぜいだったから、大きな力をもつことができなかった。大きな力をもつことができなかったから、抑制と均衡をかけるまでにはいたらなかった。

 日本の国のまわりであるよりも、国の中を見てみると、国の中で抑制がかかっていない。そこに危なさがある。国のまわりに、不こころえの国がいくつもあるのであるよりも、国の中でいかに抑制をしっかりとかけて行くことができるのかがだいじな点だ。

 国のまわりにいくつも不こころえな国があるから、日本の国が危なくなっているのであるよりも、国の中で抑制が欠けてしまっているところに危なさを見てとりたい。政党でいえば、共産党のような、抑制をかけて行くようなことを言ったりやったりしているところがあるけど、そういったものが無視されてしまっていて、冷遇されてしまっている。排除されてしまっている。

 国を守るために、抑止を高めて行くのだと、まじなことがらだから、ゆとりが欠けてしまいやすい。ゆとりが欠けるのは、抑制が欠けるのにつながる。ゆとりの心をもつようにすれば、抑制がかかりやすい。ゆとりの心を持ったほうが、平和につながりやすいのがある。

 ゆとりが欠けやすいのが日本にはあり、悪いいみでのまじめ主義におちいりやすい。悪いいみでのまじめ主義におちいらないようにして、ゆとりをもつようにして、抑制をしっかりとかけて行く。抑止よりも、抑制のほうがよりだいじなのがあり、抑制が欠けているのがいまの日本ではしんこくだ。たとえ抑止を高めるのだとしても、抑制がかかっていないのが盲点となり、かんじんなやるべきこと(抑制をかけること)ができていないことになる。

 参照文献 『思考のレッスン』丸谷才一社会的ジレンマ 「環境破壊」から「いじめ」まで』山岸俊男 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『知の古典は誘惑する』小島毅(つよし)編著 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『右傾化する日本政治』中野晃一