党を守るか、変えるか―(憲法でいえば)護党と、改党

 党を批判した人を、除名した。共産党はそうしたのがあるが、それについてをどのように見なせるだろうか。

 党を批判する人を反共だとしているのが日本共産党だ。

 反共の言い方が言われているのがあるけど、それについてを、いまの日本の憲法と関わらせてみたい。

 いまの日本の憲法は、すごい悪いものなのではない。良いものではあるけど、かりにそれをすごい悪いものだと仮定してみたい。

 すごい悪い憲法があったさいに、それを改めて行く。そのさい、憲法をこわすようになる。改憲ではなくて、壊憲だ。

 もともとあったものを、こわす。それで新しく良いものを作る。そういうふうにするさいに、それをなす人は、破壊の性格をもつ。

 破壊の性格をもっている人は、悪い人なのかといえば、必ずしもそうとは言い切れそうにない。

 たとえば、いまの日本の国のあり方が悪いとして、それを改めようとする人は、破壊の性格をもつ。

 いまの日本は、よくないカルト(cult)の宗教に国の政治がのっとられているところがある。

 悪いカルトの宗教に日本の国の政治がのっとられているところがあるから、それを改めようとする人は、破壊の性格をもった人だ。

 いまの与党は自由民主党だけど、自民党をぶっこわすと言っていたのが小泉純一郎元首相だ。壊党だった。じっさいには護党になり、党は守られた。自民党はこわれず、いまでもぴんぴんしていて、いぜんとして日本の国を支配しつづけている。

 共産党でいえば、反共とされるのがあるけど、それを別な言い方でいえば、壊共、建共、創共、論共などとできる。

 憲法でも、改憲があれば壊憲もあり、論憲もある。

 憲法においては、改憲か護憲かの立ち場がある。それぞれの立ち場に、信念によるものと論争によるものとがある。ゆるぎない閉じた信念によるのと、開かれた論争をよしとするものとだ。

 こわすのと作るのや、こわすのと直すのがある。破壊と創造や、破壊と建設や、破壊と生産がある。それらの対照な二つのものがあり、それらにおいて、その中の建設がだいじなのがあって、できるだけ建設性がある話し合いができればよい。非建設なやり合いになってしまうと不毛だ。

 共産党は、党として破壊の性格をもっているのがあり、いまの悪い日本のあり方を改めようとしたり正そうとしたりしている。それがあるから、破壊の性格を持っているからといって、必ずしも悪いのだとは言い切れそうにない。主体が、破壊の性格をもっているのは、もしかしたらよい見こみがあり、反共とされる人の中にもそうした人がいることがある。

 参照文献 『憲法という希望』木村草太(そうた) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『絶対に知っておくべき日本と日本人の一〇大問題』星浩(ほしひろし)