犯罪者と、その適したあつかい―犯罪者を、成功者にしてはならないのか

 犯罪者(terrorist)を、成功者にしてはならない。自民党の政治家は、そう言っていた。

 安倍晋三元首相を殺した犯罪者を、成功者にしてはならないのだという。自由民主党の政治家はそう言っているけど、そのことについてを、(理と気の)理気学で見てみるとどう見なせるだろうか。

 犯罪者を成功者にしてはならないのだとするのは、理気学でいえば、理によるものだろう。理によって悪いものをさばくあり方だ。

 理によってさばくだけでは十分だとはいえそうにない。気によって、たずねることもいる。

 理はこう派なものであり、気はなん派なものだ。こう派だけではなくて、なん派なものもあったほうがつり合いを取ることができる。こう派となん派をおり混ぜるようにしたほうが、理気学においては適している。

 交通のあり方では、理のあり方だと、犯罪者をきびしくさばくことの一方向のものだ。その交通のあり方だと、犯罪者がどういうわけで悪いことをしたのかや、どういう思いを抱いているのかがわからない。

 どういういきさつで悪いことをしてしまったのかがある。安倍元首相の事件だったら、どういういきさつで安倍元首相を殺すことにいたったのかの流れがあるから、それを十分に見て行くようにしたい。

 罪を憎んで人を憎まずと言われているのがあり、たとえ罪は憎むのだとしても、人を憎むことまでは必ずしもいらないものだろう。罪にたいしては理によってさばくのがいるけど、人にたいしては気によってたずねることがあってもよいのがある。

 理と気で見てみると、法の決まりは、上に甘くて下にきびしいのがあるのはいなめない。おなじ理を当てはめるのであっても、上にたいしてはその理が甘めで、下には理がきびし目なのがある。

 法の網の目は、力を持つ者(政治の権力者など)にたいしては甘くて、大目に見て見逃すことがしばしばある。力を持たない下の者にはきびしくて、すこしの悪いことでも見逃さない。

 上と下や、力を持つ者と持たない者とで、理の当てはめが不公平になってしまっているのがあり、正義が損なわれている。上には甘くて下にはきびしい理のあり方を、改めないとならないのがある。

 すごく健全で風紀がよく保たれているのが、いまの日本なのだとはいえそうにない。退廃(decadence)がおきているのがいまの日本の政治だろう。ちゃんとした理が欠けたあり方になっている。

 経済だけに力が入れられているのがあって、お金(お金もうけ)がすべてだといったようになっているのがあり、経済つまり気にかたよりすぎている。

 政治では、勝ちさえすれば何でもやってよいといったふうになっている。これは安倍元首相のときに、とりわけひどくなったあり方だ。勝った者が正しいとするあり方になってしまっている。数の多い少ないで、正しさを決めてしまう。政治で理性の退廃がおきている。

 どういう人なのか(力を持つ者なのかどうか)によって、理の当てはめが甘くなったりきびしくなったりするのもあるから、そうした点でも、理によってさばくだけではなくて、気によってたずねることも場合によってはいるものだろう。気によってたずねながら、人とは分けたうえで、罪について理によってさばく。そういうやり方がよいのだと見なしたい。

 悪いことにたいしては、きびしければきびしいほどよいのかといえば、そうとは言い切れそうにない。理によってさばくさいには、たんにきびしければよいのではなくて、そこには十分な理性がいる。理性で、これは悪いことなのだといったことを、気の対話の交通によってちゃんと受け入れてもらう。わかってもらう。

 悪いことであるのを、理性でなっとくをしてもらうことがいるから、たんに理によって上から一方向でさばけばよいものではないだろう。気によってたずねて、対話の交通をしっかりとやって行くことが欠かせない。

 参照文献 『韓国は一個の哲学である 〈理〉と〈気〉の社会システム』小倉紀蔵(きぞう) 『罪と罰を考える』渥美東洋(あつみとうよう) 『悪の力』姜尚中(かんさんじゅん) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき)