桜を見る会のことと、同じものにたいしては同じようにあつかう正義原則―立ち場の入れ替えや置き換えによる普遍化の確認がいる

 正義とはいったい何だろうか。それにはいろいろなものがあるとされるが、一つには同じものには同じあつかいをするようにする。同じものなのであれば同じようにあつかう。正義原則や公平原則だ。

 自由主義(liberalism)では正義原則がとられていて、普遍化することができない差別をなくして行く。はたして与党である自由民主党安倍晋三前首相の桜を見る会のことその他におけるふるまいは正義によっているのだろうか。人それぞれによっていろいろに見られるのはあるのはたしかだが、不正義になっているのがある。

 なにが正義にとってふさわしいのかを見るさいには、個別の具体のものを一般化してみて、抽象化してみる。個別の具体の必須のだれかではなくて、任意のだれにでも当てはまることかどうかを見て行く。立ち場を入れ替えたり置き換えたりしてみて、たとえ任意のだれであったとしてもそれがふさわしいことなのかどうかを見て行く。任意によって普遍化することができるかどうかの確認だ。

 ちょうどよい(just)ことが正義(justice)であるとして、そのちょうどよさとは、任意のだれであったとしてもそれが当てはまることによる。ある人には甘すぎて、ある人には厳しすぎるのではない。ある人のときには甘くして、別の人のときには厳しくするのだとあつかいが不公平だ。どういう人なのかによってあつかいを甘くしたり厳しくしたり変えてしまうと公平さが損なわれる。

 罪にたいする罰をかすのが応報律だが、そのつり合いがどうかがある。どれくらいの罰をかすのかでは、それがきびしければきびしいほどよいとは言えそうにない。きびしい罰であればあるほど罪を抑止する効果があるとはいえず、たとえ死刑の制度があったとしても殺人の罪などを抑止する効果はうすいのだと言われている。殺人などの重大な犯罪を抑止する効果がうすいことから国際的には死刑の制度が廃止されている国が多い。

 功利主義からすると罪にたいする罰はできるだけ軽いほうがよいのだとされる。重いものではなくて、できるだけ軽いものでありながらそれなりに高い効果がある罰がのぞましいのだとされる。できるだけ軽い罰で高い効果があるのは最小で最大の効果をあげることだから効用が高い。功利主義では効用(満足)が高いものがのぞましいとされる。

 きびしい罰をかければかけるほどのぞましいとはいえないから、きびしくしすぎなくてもよいのはあるが、あつかいが公平になるようにすることはいる。任意のだれであったとしても同じあつかいになるようにしなければならない。同じあつかいにならないで、ある人には甘くして別の人にはきびしくするのだと不公平になる。

 任意のだれであっても同じことにたいしては同じようにあつかうようにして、同じようなきびしさになることがいる。そうなることがいるが、安倍前首相は自分だけきびしさから逃れようとしていて、自分だけ甘い方向に行っている。きびしく見なせるとするとそうしているのがある。

 ほかの人にはきびしいのだとしても、自分にだけは甘くする。自分だけはきびしさから逃れる。これは正義原則にかなっていない。二重基準(double standard)になることから自由主義が壊されてしまう。自由主義が壊されてしまうことから、桜を見る会のことであればそのこととはまたちがう新しい罪がおきてくる。自由主義を壊すことの新しい罪が上乗せされることになる。

 あつかいが不公平になるのであれば、他の人にはきびしくて自分にだけは甘いのではなくて、自分にだけはよりきびしくするのであればまだしもよい。他の人と同じくらいのきびしさがあるとして、そのきびしさを満たした上でそれでも足りないから自分にだけはよりきびしいことを自分で自分に背負わせる。自分が背負うことになるきびしさが足りないとするのであればまだしもよいが、それとは逆にきびしさから逃れて自分にどんどん甘くするのであれば政治においてはまずい。人情においてはわかることではあり、自分のことはとくにかわいいものだから、だれにでも多かれ少なかれ自分のことをとくにかわいがる面(自己保存の面)はあるだろうが。

 自分にきびしくすることは、他からのきびしい批判にさらされることだと言えるのがある。他からのきびしい批判にさらされることをこばむことが自分に甘くすることだろう。政治においては自分にきびしいことがいり、自分に甘いことは避けられるのがよい。日本の政治は自分にきびしいのではなくて自分に甘い方向に向かっていっているのがある。

 個人の生き方であれば、自分にきびしくしなければならないとは言い切れず、自分に甘いようであってもよいことだろう。それはそれぞれの個人の好きなようにしてよいものだが、それとはちがって政治においては自分にきびしいことがいる。政治において自分に甘くするのは政治にとって命とりになりかねない。政治において自分に甘くしてしまうと他からの批判が欠けることになり、国の全体がまちがった方向に向かってつっ走っていってしまうことがある。

 哲学者のカール・ポパー氏は反証主義をいっていて、他からの批判にさらされるようなきびしいあり方がよいのだといっている。甘いあり方をいましめるものだ。きびしいあり方によるのが批判の合理主義である。日本の政治では批判の合理主義ができていない。甘い方向に走っていっていて、それが許されてしまっている。どんどん甘い方向に走って行くことが進んで行くと自由主義がどんどん壊されていって不公平さがどんどんすすむ。それを改めて行くようにして、少しずつきびしさをとり戻すようにして行きたい。

 参照文献 『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください 井上達夫法哲学入門』井上達夫 『ぼくたちの倫理学教室』E・トゥーゲンハット A・M・ビクーニャ C・ロペス 鈴木崇夫(たかお)訳 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『功利主義入門』児玉聡(さとし) 『文学の中の法』長尾龍一 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信現代思想を読む事典』今村仁司