韓国の新宗教のことの、ふくざつさ―よくもあり、悪くもありの、よさと悪さの混在

 宗教を、順と逆から見てみるとどういったことが言えるだろうか。

 順だけであれば、すっきりとしている。

 順と逆が共にあると、こん乱をまねく。すっきりとした見かたができなくなる。

 韓国の新宗教(旧統一教会)は、順だけではなくて、順と逆のあり方になっているから、ぐちゃぐちゃなあり方になっている。とり散らかっていて、とり乱れているのだ。

 なんで、与党である自由民主党は、韓国の新宗教とずぶずぶの深い関わりを持っているのかといえば、順と逆が共にあったからだろう。

 たとえば、その宗教が、よいのならよいだけとか、悪いのなら悪いだけとなっていたら、わかりやすい。すっきりとしている。これは順のあり方だ。

 よさと悪さがどっちもあると、よいけど悪いとか、悪いけどよいといったことになり、抑揚(よくよう)がつく。両義性(ambivalence)のあり方になる。

 やっかいなのが、順と逆が共にあるものだ。そのあり方だと、転倒や逆の因果がおきることになってしまう。

 転倒とは、あるものが良いと言われたり、その反対に悪いと言われたりするものだ。その二つが共に言われる。転倒するのである。

 逆の因果は、あることによって良くなるとされるのと、悪くなるとされるのとが共に言われる。良くなるのだとされていても、その逆の悪くなるのもまたあって、逆の因果(原因と結果)もなりたつ。

 かなりの高い共感(sympathy、empathy)を韓国の新宗教にたいしてもっていたのが自民党だ。高い共感をもっていなければ、そこまで深いずぶずぶの関わり合いになるはずがなく、関係のし合いつまり交通がそこまで深くはならないものだろう。

 転倒や逆の因果がおきてしまっているから、韓国の新宗教へのとらえ方が二つに割れている。良いとされるのが一つにはあって、(韓国の新宗教が)良い考えを持っているとか、そんなに悪い考えではないとかとされるのがある。よい価値をもつ。

 悪い価値をもつのもあって、カルト(cult)の新宗教だと見なされているのもある。うんとよい価値があるのと、うんと悪い価値があるのとの、落差があって、こい光とこい影を共に持つようなふうである。

 政治家にとって、すごく益があって、良いことになるから、韓国の新宗教とつき合いを持っていた。交通をし合っていた。交通をし合えば、政治家にとって良いことになるから、それをやっていたのである。

 よいことになるだけではなくて、悪くなることがいまおきていて、関係していたのが悪くはたらいている。因果で、関係つまり交通をし合えば、よい結果がおきるのがあったけど、その逆に、悪い結果がおきているのがいまの状況だ。

 高い共感を、韓国の新宗教にたいして持っていて、かばうことを言っている人がいるけど、その人は、順でとらえていることになる。順だけだと、逆をとり落としているのである。順と逆の二つが共にあるのがあるから、そのうちの順だけを見るのだと、逆を切り捨てて捨象してしまう。

 順と逆が共に混在していて、転倒や逆の因果がおきているのが、韓国の新宗教だ。その混在ぶりをとり上げるようにしないと、ありさまをとらえることができづらい。順と逆があるうちで、逆を(逆もまたあることを)切り捨てて捨象してしまわないようにするのがみそだろう。

 順だけではなくて逆もまたあることから、転倒や逆の因果がおきているのがあるから、良いのだか悪いのだかよくわからないのや、(政治家にとって)よくはたらいたのか悪くはたらいたのかよくわからないのがあり、そのよくわからないことになっているところに、要点の一つがある。

 よし悪しの、理非曲直(りひきょくちょく)を定めるのができないのがあって、良いのだか悪いのだかわからなくなっていて、何がなんだかわからなくなっているのが、自民党だろう。何がよくて何が悪いのかが、わからなくなっているのだ。

 よいような悪いような、あいまい(fuzzy)なものになってしまっているのが、自民党にとっての韓国の新宗教だ。明と暗のような二値(digital)ではなくて、うす暗がり(うす明かり)のような多値(analogue)のあり方になっている。二値だったら、法のあり方に合うから、適法かさもなければ違法みたいに、ものごとがはっきりとする。

 参照文献 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき)