日本の政治の、あれもこれも(と、あれかこれか)のあり方―まっとうな原理が欠けている

 日本のいまの政治が、こん迷しているのだとすると、それはいったい何がもとになっているのだろうか。

 原理の無さが、こん迷のもとにはある。(色々に理由がある中で)そう見なしてみたい。

 原理がないから、多神教のあり方になっている。多神教では、一つの袋の中に、色々なものを入れこむ。色々なものがごちゃ混ぜになって、混在してしまう。

 経済では、日本の中央銀行日本銀行が、物価高や円安をおし進めている。それでいま(ほかにも色々な要因が関わっている中で)物価高や円安がおきているけど、それが人々の生活を苦しめている。

 物価高や円安は、それによって賃金が上がるのが見こめて、経済が良くなるかのようではあるけど、二律背反(真と偽や正と誤をすっきりと割り切れない)がおきてしまう。賃金が上がらず、経済がよくならずに、たんに物価高や円安がおきるだけのことがおきてしまうのがあるから、二律背反になる。

 いっぽうでは、日銀が物価高や円安をうながしていながら、たほうでは、それらを抑えこむことをやっている。あたかも、加速しながら減速しているかのようだ。加速するのなら加速するだけだったり、減速するのだけなら減速するのだけだったりすれば、二律背反にはなりづらい。

 加速もして、減速もやる。日本の政治は、そうなっているのがあり、あれもこれものあり方になっている。あれもこれものあり方は、多神教のあり方だ。そこには原理が欠けているのだ。

 経済とはちがい、まわりの国との関係では、韓国をきらっていながら、それとともに、韓国の新宗教(旧統一教会)とつながり合う。嫌韓でありながら、韓流でもあるのだ。与党の自由民主党にはそのあり方があり、これはあれもこれもの多神教のあり方だ。原理が欠けている。

 特殊さによりながらも、普遍さによるのがあり、人権の侵害(特殊さ)に当たることを言っていながらも、人権の尊重(普遍さ)をになう役についている政治家が自民党にはいる。そこにも、あれもこれもの多神教のあり方が見うけられる。原理がない。

 二律背反がおきてしまうのがあって、それにいかに耐えることができるのかがある。それに耐えられなくなっているのがいまの日本の政治だろう。とりわけそれに耐えられなくなっているのが自民党だ。それでめちゃめちゃなことを政治でやっている。

 あれかこれかだったり、あれもこれもの多神教のあり方だったりするのが自民党には目だつ。あれかこれかのあり方は、あれからこれへのあり方になるのがあって、その場その場でころころとあり方がせっそうなく変わって行く。核がなくて、芯がないあり方なのである。大きくぶれてしまう。

 自由主義(liberalism)や反証主義や説明の責任(accountability)などは、益になる原理である。そういう原理によるようにして、それで二律背反に耐えられるようにして行く。原理を持ちながら、政治をやって行くことがいるけど、いまの日本の政治では自由主義がすごくこわされてしまっている。そこから、あれもこれもの多神教のあり方などになっているのがあるから、原理にできるものである自由主義などを立て直すようにして行きたい。自民党にとくに見られる、あれかこれかや、あれもこれものあり方を批判していって、それらを改めて行きたい。

 参照文献 「二律背反に耐える思想 あれかこれかでもなく、あれもこれもでもなく」(「思想」No.九九八 二〇〇七年六月号) 今村仁司 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫反証主義』小河原(こがわら)誠 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし)