平和のような、よいことも言っているから、韓国の新宗教は信用できるのか―平和といえば、まず(なによりも)、憲法

 平和の理念をかかげている。平和を言っているのがあるから、韓国の新宗教(新興宗教)は、悪い宗教ではない。そう悪い宗教ではない。テレビ番組の出演者は、そう言っている。

 理念で平和をかかげているからといって、韓国の新宗教を、安全なものだと見なしてよいのだろうか。良い宗教だとおしはかってもよいのだろうか。

 かりに、韓国の新宗教が、平和のような、よい理念を部分としてはかかげているのだとしても、そこで、日本のいまの憲法を思いおこすようにしたい。平和といえば、憲法である。

 憲法では、平和主義を、大原則の一つとしてかかげている。

 平和の理念をかかげているから、韓国の新宗教がよいのだと見なすのであれば、憲法もまた、よいものであると見なせるはずだ。

 日本の与党である自由民主党がやっていることは、韓国の新宗教に参与(commit)することだ。自民党は、韓国の新宗教と結びつきながら、憲法の改正をねらっている。

 おなじ平和の理念をかかげているものであれば、韓国の新宗教に参与するのではなくて、憲法に参与するべきだ。その逆に、憲法に参与せずに、韓国の新宗教に参与しているのが自民党であり、やっていることがおかしい。

 平和を目ざして行くさいに、はたして、どういったことがより有効性が高いだろうか。韓国の新宗教に参与すれば、平和にいたれるのだろうか。むしろ、ますます平和から遠ざかってしまう。そのおそれが高い。

 韓国の新宗教に参与すれば、平和にいたれるのかといえば、それはかなりあやしい。それよりも、憲法に参与することで、平和にいたろうとしたほうが、確実性が高い。少なくとも、韓国の新宗教に参与して平和を目ざすよりは、ずっとまちがいは少ない。

 自民党は、韓国の新宗教に参与していて、ゆ着している。お互いに信頼し合い、価値を共有し合っている。価値としては、特殊なものをとっている。

 特殊な価値によってしまうと、日本をよしとするような愛国になる。国家主義(nationalism)が強まる。右傾化して行く。そのなれのはてが、いまの日本である。

 特殊な価値によってしまうと、愛国が強まってしまうのがあり、平和から遠ざかってしまう。戦前は、それによって、日本は戦争につっ走り、敗戦にいたった。

 いまの日本は、特殊な価値によっていて、戦前の日本と同じになっているところがある。戦前の日本が、まちがった方向に向かっていったのと、同じ轍(てつ)を踏もうとしている。日本の負の歴史を忘却しているからである。

 平和を言うのであれば、それだけでよしとはせずに、ではなぜ、おなじ平和を言っている、日本の憲法と、韓国の新宗教とで、ずれがおきるのかを見て行くようにしたい。ずれつまり差異に目をつけて、差異を見て行く。おなじ平和を言うのなら、憲法と、韓国の新宗教とで、ずれがおきず、お互いに合うのでなければ変である。

 なぜ、日本の憲法と、韓国の新宗教(と、それとゆ着している自民党)とで、ずれが起きるのかといえば、普遍と特殊にちがいがあるからだ。憲法は普遍の価値だけど、韓国の新宗教(と自民党)は特殊な価値によっている。

 平和を言っているのだから、よいではないか、とはしてしまわずに、それが、普遍の価値によっているのか、それとも特殊な価値によっているのかのちがいを見て行きたい。戦前の日本は、普遍の価値によることができず、特殊な価値によることで、大きな失敗をした。戦争をやり、敗戦にいたった。

 特殊な価値の、反動や復古によるのが、韓国の新宗教自民党だ。たとえ平和を言っているのだとしても、そこから踏みこんで、普遍の価値なのか、それとも特殊な価値なのかを見てみないとならない。特殊な価値によっていると、戦争をよしとしてしまうのがあるから、平和にはいたれない。平和に逆行してしまう。

 平和といえば、といった問いかけの答えとしては、日本の憲法を答えとして持ち出せる。憲法をもち出して、つき合わせてみる。憲法と合えば、おなじ平和を目ざしていると言えるだろうが、憲法とずれているのであれば、あやしさがある。韓国の新宗教や、自民党は、憲法の改正を目ざしていて、憲法とはずれているから、あやしさがかなりある。平和を本気では目ざしてはいなくて、戦争をよしとしていることがうかがえる。

 参照文献 『憲法という希望』木村草太(そうた) 『憲法が変わっても戦争にならない?』高橋哲哉斎藤貴男編著 『右傾化する日本政治』中野晃一 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや)